Chapter1 : 1964年

最近、知人から古いGun誌を頂いた。1964年(昭和39年)6月号、実に38年前のものだ。
 当時は平綴じではなく、背の部分がない中綴じだった(いわゆる週刊誌型)。表紙の感じは今とあまり変わらない。銃の写真に今と同じGunのロゴ。カラーの部分は表紙と背表紙だけで、あとはモノクロだ。価格は180円。

1964年とは、どんな時代だったのだろうか。

 敗戦から19年、日本は先進国型の消費社会となっていた。東海道新幹線が開業、東京-大阪間の片道運賃は\2,480-だった。浜松町−羽田間に東京モノレールが開通、タクシー初乗り\100-、大卒平均初任給は\21,190-、アイビールックが流行, 若者向け週刊誌 平凡パンチが創刊(1988年廃刊)した。王貞治55号ホームラン達成、佐藤栄作内閣誕生、早くも家庭用ビデオデッキがSONYから登場、露出計内蔵型一眼レフ アサヒペンタックスSPが発売された。10月には東京オリンピックが開催、そしてこの年,海外旅行が自由化された。。
 もちろんその裏では様々な歪が起きていた。アメリカが北ベトナム軍基地を攻撃し、本格的にベトナム戦争が始まったのがこの年である。安保闘争に揺れ、また公害による環境破壊が意識され始めた。高度成長期ではあったが,1964年は株価が低迷、証券不況の年でもあった。

 変化の少ないGun誌ではあるが、さすがに38年前のものは、その内容は現在とかなり違う。その違いの主たる要因はGunをとりまく環境の違いから来ているのだろう。
 当時、実銃射撃は今よりはるかに盛んだった。銃を所持しようという場合、所轄署の防犯課を通じて“銃砲刀剣類所持許可申請書”と“同居親族書”を都道府県公安委員会に提出するだけであった。
 もちろん書類を出すだけで,自動的に許可がおりるのではなく,しっかりと身元調査は行なわれる。しかし,18歳以上で、住所が定まっていて、精神病や麻薬中毒者でなく、危険人物と判断されなければ、所持許可はおりた。いきなりセンターファイア・ライフルを所持することも出来たし、22口径で狩猟も可能であった。射撃教習もなければ、金属製ロッカーへの保管の義務も無かった。
 当時、銃は決して安いものではなかった。たとえば、このGun誌の広告に、ベレッタ3EL 上下2連12ゲージ・ショットガンが\380,000-とある。レミントン1100は\200,000-だ。ウェザビー・マークV, 300Win.Magnumが\250,000-, シュルツ&ラーセンM65 30-06が\145,000-, レミントンM742 30-06 \150,000-となっている。今の感覚でみるとすごく安いと思えるが、大卒の初任給が2万円程度の時代だ。これらは高価な品物だったといえる。
 国産はどうだっただろうか。今は無き、K.F.C.のModel OTW30”が\120,000-だ。その他、水平2連 \42,000〜\220,000-, 上下2連 \53,000 〜\180,000-となっている。22口径ライフルも安い。丸三精機製マスター自動ライフルが\36,000-、兵林館Model 223 ボルトアクション6連が\25,000-であった(223口径ではない)。
 国産銃であれば、比較的楽に購入出来ただろう。もっとも装弾は高かったらしい。ショットシェルの当時の価格は判らないが、今の価格とあまり違わなかったようだ。30-06弾は1発\150と、このGun誌に載っている。射撃場でこれを140発ほど撃てば、当時の新卒社員の初任給がそれだけで吹っ飛ぶ。
 そのため射撃は当時、金持ちの贅沢な道楽と位置付けられていた。もっとも当時はゴルフも同じだった。

       上   駒沢オリンピック公園 司令塔 

下 左右 埼玉県朝霞射撃場 

 1964年10月10日から24日までの15日間、東京オリンピックが開催された。当時、オリンピック史上最高の94カ国、選手5,586人が参加し、またアジアで初めての開催でもあった。
 敗戦から19年目の日本は、国家的規模の大事業として、このオリンピックに注力、競技場建設や道路および鉄道整備を進めた。
 射撃競技は朝霞射撃場と所沢クレー射撃場で開催された。所沢射撃場は既にない。朝霞射撃場は、自衛隊の施設として残り、ライフル射撃競技の会場として今でも使用されている。
 但し、写真の通り、設備はもはやボロボロ。他の競技場(国立競技場、代々木競技場、武道館、東京都体育館、駒沢オリンピック公園総合運動場、馬事公苑、秩父宮ラグビー場、その他)は、オリンピック後も維持整備を務め、程度の差はあるもののそれなりの態勢を整えている。
 しかし朝霞射撃場は、その後整備を進める経費は殆ど無かったようだ。日ラ及び自衛隊関係者にしか利用出来ない施設であれば、それも無理はない。維持に努力している方々には感謝しているし、ここを今でも利用出来ることは非常にありがたいと思う。しかし、お世辞にも立派な施設とは言うことは出来ない。

  一方、1960年代前半に、第一次ガンブームというものがあったらしい。皇太子殿下(現在の天皇陛下)ご成婚テレビ中継をきっかけに,各家庭に急速に白黒テレビが普及する。そこで放映されていたアメリカの西部劇は大いに人気を集めた。
 そんな中,サントリーが発行していた小雑誌“洋酒天国”が,Gun特集を載せたのが,ガンブームきっかけとも言われている。
 その結果,アメリカ製のオモチャピストルを日本の大人達が喜んで買うようになったらしい。当時は1$=¥360の固定相場制で,輸入品は非常に高価だった。いかにも子供向けといった趣のオモチャ銃を,多額のお金を出して大人が買う。いささか奇異な感じではあるが,それは経済的にもある程度の余裕が出来たから可能になったことだ。
 敗戦と共に,ピストルは所持が許されなくなった我が国でも,テレビや映画のヒーローのようにピストルを持ちたい,そういう気持ちは理解出来ないでもない。しかし所詮は子供向けのオモチャである。大人が持って、いつまでも満足していられるものではなかった。
 そこで,ニッケルメッキに輝くそれらの色を黒く塗り,部分的な改良を加えて,少しでも実銃らしく加工する業者も現れた。やがてアメリカ製品の改造ではない,オリジナルのオモチャ銃が作られるようになる。それがモデルガンとなった。

1960年代をイメージするものを探した結果、手元にあったものがこの時計だ。Bulova Accutron(ブローバ アキュトロン)、今でこそ安物時計メーカーと化したブローバであるが、当時は斬新な技術で、腕時計の常識を塗り替えていた。ブローバの開発した音叉式腕時計は、1ヶ月の誤差60秒程度と、それまでの機械式では得られない恐るべき精度を誇った。
 1875年、23歳のジョセフ・ブローバによってニューヨークに宝石店が開店したことが、ブローバ社の始まりだ。1911年懐中時計を生産、その後、腕時計や宝飾時計、史上初の女性用腕時計の生産を経て、1959年、時計の歴史に一石を投じる音叉式時計を開発した。
 アキュトロンとは Accuracy と Electronを組み合わせた造語で、“99.9977%の精度を保証する時計”というコピーで売り出された。
 12時の位置にあるX字型のユニットがこの時計の心臓部である音叉だ。向かい合った2つの音叉の一方に振動を与えると、もう片方が規則正しく共鳴(振動)するという技術を使い、機械式では考えられないほどの高振動を歯車の輪列運動に伝えているので、針は滑るように完全なスイープ運針を見せている。360Hzで動作するこの時計に耳を近づけると、キィーンと高い音叉の振動音が聞こえる。
 1969年、アポロ11号による人類初の月面着陸で、NASAの厳しい品質基準をクリアーしたアキュトロン・タイマーが、月面の“静かな海”に降り立つという栄誉を獲得している。
 1970年に、更に高い精度を持つクォーツ式時計が登場、アキュトロンのアドバンテージはなくなり、1976年生産を中止した。
 このモデルはBulova Spaceview Conversion Modelで、白い文字盤がセットで販売されていた。

 しかし,1964年には,西部劇を中心としたガンブームは既に終わっていた。オモチャ銃を買った人達の多くは,やがてそれが壊れると興味を失う。残ったのは,とにかく銃の格好をしたものを持ちたい、という一部の人達だけになる。彼らは,モデルガン愛好家となった。
  Gun誌は,そんな状況の中で1962年末に創刊している。モデルガン愛好家を主要読者に据えるのではなく,実銃シューター向けの記事を中心にした大人の雑誌だった。
 1964年6月号の特集は,“クレー射撃に於ける装弾のテクニック”というものだった。他にも“チョークの話”,“現代空気銃への道,デイジー空気銃”,“射撃を通じて日韓親善”,“300ホーランド&ホーランド・マグナム”といったシューター向けの記事が並ぶ。
 その他 “コルト・オートマチック.32&.380”,“11年式軽機関銃”,“これが狙撃銃だ<ドイツ編>”,“ルガー・ピストル”,といったものがある。さらには“銃砲史”,“日清戦争”,“銃器鑑識の世界” といったGun愛好家向けの記事が続く。
 モデルガンの広告は載っている。しかし記事ではモデルガンには殆ど触れていない。あくまでも実銃雑誌なのだ。現在のGun誌が、その主要読者としてトイガン愛好家を据えているのとは大きく違う。
 この硬派ともいえる内容が、ある意味で幸いだったのかもしれない。モデルガン愛好家に迎合した雑誌であったなら、1971年(昭和46年)のモデルガン規制を乗り切れなかっただろう。

 MERCURY紙薬莢装弾。写真のものはempty shell。時期的には1960年代に使用されたものと思われる。角度的に見えないが、7 1/2 32gのTrap Loadとプリントされている。
MERCURYは、群馬県前橋市の蟻川銃砲火薬店が製造販売していた装弾のブランドだった。しかしこれはNPK(日邦工業株式会社)に、そのブランドを売却したあとのもの。
  現在は24gが基本だが、当時は重装弾がクレー射撃で用いられていたようで、これが32gであることも納得出来る。

 とにかく、この古いGun誌を見ていると、当時の状況がいろいろ見えてきて、なかなか興味深い。そして、ページをめくっているうちに、ひとつの広告に私は引っかかるものを感じた。
 渋谷の“ロイヤル商事銃砲部”、このロイヤルという名前に聞き覚えがあった。渋谷のロイヤル銃砲店…

Chapter 2 : ロイヤル銃砲店乱射事件

 このGun誌の広告では,“スポーツカーと銃砲の店”とある。ロイヤル商事には銃砲部と自動車部とがあったようだ。渋谷から原宿に向かう道で,現在はファイヤー通りと呼ばれている場所にその店はあった。車もそこで展示販売していたかどうかは判らない。しかし,この店はロイヤル銃砲店と呼ばれていたらしい。
 広告には,ウェザビー300Win,モーゼル30-06,ウィンチェスターM100 308,スティーブンス オート22といったライフルと,ジャガーEタイプ,MGBといったスポーツカーの名前が並んでいる。銃とスポーツカー,なんとも大藪晴彦の世界だ。
 このロイヤル銃砲店が, 1965年7月29日,大事件の舞台となったのだ。
 この事件が発生する直前の7月15日、銃刀法が改正され、銃砲規制は強化された。銃を購入しようとする場合、精神病でない事を証明する医師の診断書と、住民票を提出する事になった。
 この規制強化の直接の原因は同年2月、名古屋で起きた猟銃乱射事件である。
 名古屋の志賀東映(映画館か?)に支配人代理として勤務していた西村貞助は、勤務先の裏にあった喫茶店にショットガンを撃ち込み逮捕された。
 逮捕後、この西村貞助は前年に精神分裂症で治療を受けており、感情的で暴力をふるい易い傾向にあったことが判った。
 精神分裂症にも関わらず銃器所持許可を申請し、銃を所持出来た。警察はこの男に所持許可を与えるまでに12回も面接している。しかし担当した警察官は、この男の病歴を確認出来なかった。治療後、住所が変わり、新しい住所からは、その治療履歴が出てこなかったからだ。
 その結果、引越しの有無を確認する意味での住民票と、精神的な病気を持っていないことを証明する目的で、医師の診断書が必要になった。
  この銃砲規制がスタートして2週間後の7月29日午前中、この大事件の犯人である18歳の男は、2年前に姉の名義で丸井中野店で買ってもらった丸三精機製のライフル,マスターNo.3をもってスズメ撃ちに出かけた。
 神奈川県座間の山道で発砲していたところ,大和署の警察官が来て職務質問を行なった。すると犯人は,持っていた銃でいきなり警官を殴り,ピストルを奪って警察官を撃った。
 制服と警察手帳を奪い,駆けつけたパトカーに向かって2発発砲。これで警察官は太ももを打たれて重傷を負い,犯人はその場から逃走した。
 最初に拳銃を奪われ、撃たれた警察官は,同日の午後2時に死亡している。
 犯人は制服を着て警官になりすまし,近くの住人の家に行き,捜査協力を要請する形で、車を運転させてその場を逃走した。
 その後,派出所の警官に発見されるが,車を運転していた人を人質にして、ピストルをつき付け逃走した。
 まもなく別の車を運転していた人を新たな人質に,新しい車に乗り換えた。警官の制服を脱ぎ,更に2回車を替え,人質をとったまま都内に向かった。
 その間,神奈川県警は完全に犯人を見失っていた。犯人は東京都内に向かうとは考えず、その方面では検問も行なっていなかった。
 午後6時,逃走車両は渋谷消防署前で停車。犯人はその向かいにあるロイヤル銃砲店に入っていった。
 車に残された人質2名は、消防署に駆け込み警察に通報した。
 犯人は4月にこの店でSKBを1挺,購入していた。何度か店に来て,銃に詳しかったことから、16歳の店員も店に入ってきた男の顔を覚えていた。
 犯人はピストルを店員につき付け,「俺は警官をこれで殺してきた。騒ぐと撃つぞ。黙っていろよ。」「豊和M1カービンを持って来い。30連発だろ。30発タマを入れろ。」「今度はM100ウィンチェスターとレミントンだ。タマ5発づつな。」こうテキパキと店員に命令した。
 その時,ロイヤル銃砲店には,16歳の店員と67歳の店員,21歳の女性店員とたまたま遊びにきていたその妹16歳がいた。
 消防署に駆け込んだ2名の通報で,渋谷署員がパトカーで駆けつけた。サイレンが聞こえると,犯人は,「来たな」とつぶやき、店の外に向かって発砲を始めた。
 近くを歩いていた会社員の男性が撃たれ倒れた。大混乱が始まった。パトカーは蜂の巣にされ,バスも車も急停車し,応援の警官隊が続々現場に到着する。

 正面の茶色のビルが、ロイヤル銃砲店のあった場所と思われる。この建物の1階から犯人はホーワ・カービンを連射した。 2002年5月撮影

 犯人は店の電話をとり,警察に電話をした。「こちらはロイヤル銃砲店です。パトカーとヘリコプターがうるさいからどけなさい。どけないと,持っているピストルで店の男の人も女の人も構わず撃ち殺す。殺してもおれの責任ではない。こんど鉄砲を買うときには,おれは精神鑑定を受ける必要はないんだぞ。」
 そう話すと電話を切り,ネッカチーフを首に巻いて,帽子を横にかぶり,その姿を鏡に映してポーズをとった。
 人質になった店員の妹は青くなって泣き出し,失神寸前だった。他の人質も,抵抗すると殺されると思い,指示に従った。
 包囲する警察官から,店の中の様子が見えた。人質を盾に,右手にライフル,左手にピストルを持った犯人。
 警官隊はパトカー,装甲車,トラックを盾にして、S&W45口径で威嚇射撃する。犯人はそれにひるまず,ライフルとショットガンを撃ちまくった。消防署に壁がえぐれ,隣の旧渋谷区役所の窓ガラスも跳弾で割れた。警官と一般市民が次々と被弾して倒れる。
 見物の群集は3,000名以上に膨れ上がった。警官が下がれ,と叫んでも少しも下がらない。中には犯人に声援を送る者までいた。
 ロイヤル銃砲店の後ろの高架を走っている山の手線は内回り,外回り共,運休となった。
 消防署から最初の催涙弾が銃砲店に向けて撃ち込まれた。その途端,犯人は5発応射する。パトカーの後ろにいた警察官が左の太ももを撃たれ倒れた。テレビカメラのライトを点け,その様子を撮影しようとするテレビクルー。「ばかっ!ライトを消せっ」警察官が叫んだ。7時を回って暗くなった路上で,撮影ライトは,格好の標的となる。

 手前側にある2階建ての建物のほうが、むしろ当時の雰囲気を持っているのではないかと推測する。建物の後ろは、山手線や埼京線が通る線路がある。この道を進むと、まもなく岸体育館やオリンピックプールがあり、原宿駅に通じる。

 67歳の店員は犯人の隙をついて逃げ出した。再び催涙弾が撃ち込まれる。
 犯人は人質を盾に外に出ようとした。その時,銃に弾を装填させられていた16歳の店員は,持っていた銃で犯人の頭を殴り,犯人がよろめいた隙に逃げ出した。人質は女性2名だけになる。犯人はホーワ・カービンを連射した。
 更に催涙弾が撃ちこまれ,犯人が遂に外に出てきた。警察官数名が犯人に飛びかかり,押さえ込んで逮捕した。銃砲店に篭城し,逮捕されるまで1時間20分の出来事だった。
 ライフルとショットガンで合計133発,警官から奪ったリボルバーは,座間で発砲したものとあわせて5発を撃っていた。最初に撃たれた警察官は死亡。そこに駆けつけた警察官が重傷。ロイヤル銃砲店での発砲で警察官4名が重傷,2名が軽症,民間人5名重傷,3名が軽症という事件だった。
 この事件のあった翌日,さっそく全国の警察に,既存の許可銃に対しての再検査の通達が出された。やがて銃砲店は,在庫銃からファイアリング・ピンを外し,そのままでは発射不能にし,装弾の在庫を最小限にする。
 その後、30連マガジンは禁止になり,ライフルはマガジンに5発,ショットガンの場合は3発装填が上限となった。

 右手は渋谷消防署であるが、2002年5月現在、建替え工事中。当時の銃撃戦の後を示す弾痕などは、37年経った今日では、どこにも無いと思われる。

 犯人の18歳の青年の動機は何だったのか。座間にスズメを撃ちにいったとき,職務質問した警察官の威圧的な声が気に障ったとも言われている。しかし、それだけでこれだけの大事件を起こすことは考えられない。彼の心の中に巣食っていたものは、全く判らない。
 4人兄弟の末っ子であった犯人は,子供の時から,いわゆるガンマニアであったと言われている。銃の雑誌を読み,中学時代にはアメリカの銃雑誌を辞書を片手に読んでいた。この頃,母親が他界している。中学卒業時,お祝いとして姉がマスター・セミオートマチック・ライフル22口径を自分名義で購入して買い与えた。
 自衛隊に入れば,銃を扱えると思い,受験したが不合格になり,やむなく自動車修理工場に勤めた。その後,船員となって船に乗る。18歳になったとき,有給休暇をとって姉名義のマスター・ライフルを自分名義にして,さらにロイヤル銃砲店でSKBを購入した。
 そのまま会社を辞め,後楽園や立川の射撃場で射撃に熱中していた。そんな男がこの事件を起こした。何かが狂っていた。甘やかされていたのかもしれない。しかし,それだけでは,この大事件を起こす理由にはならない。
 逮捕された後,彼は「今日ほど,気持ちよく鉄砲を撃ったことはない。たまっていたものを全部吐き出したような気分でスカッとした。どうせ刑務所に行くんだろうから、代わりにベトナムに行きたい。好きな銃を思いっきり撃つことができるなら死んでもいい。」こう取調室で刑事に話した。
 裁判の結果,一審は無期懲役だったが,二審では死刑判決が下った。最高裁でも更生不可能として二審の判決を支持し,死刑が確定した。
 こうして犯人,片桐操の死刑が執行された。1972年7月21日,25歳だった。彼は「銃への魅力はいまなお尽きない。将来、社会へ出て再びこのように多くの人に迷惑をかけることないよう死刑にしてほしい」と願っていたという。
 この事件により、銃愛好家=危険人物、という誤った認識が人々の中に定着していった。
 しかし、銃愛好者は誰一人として、この片桐操に共感も覚えなければ、同情もしない。私達は銃を愛好しているが、人を撃ちたいとは誰も思っていない。街中で発砲したいとも思わない。むしろ銃の危険性を、誰よりも知っている。
 片桐操は異常であった。彼は“銃”に魅力を感じていたのではない。彼が愛したものは“暴力”であった。彼にとって銃はその手段に過ぎない。この違いについて、彼自身も気付いてはいなかったのだろう。それはメディアや一般の人たちも同様だ。社会一般は、片桐操を銃愛好家として捉え、嫌悪感を覚えたのだ。
 銃所持はその後も規制強化が続いた。片桐操が、まだ鉄格子の中で生きていた1971年、ライフル銃の所持に大幅な制限が加わり、所持するまでは、遠い道程となってしまった。

July 29, 2002
Aug.6, 2002 Revised

Satoshi Maola

Top