Fits in the palm like the hand of a friend Remington M51
レミントン最後のセミオートマチック・ピストルM51 Satoshi Maoka
レミントン社(Remington Arms Company, Inc.)は、アメリカでもっとも古い歴史を持つガンメーカーだ。若きEliphalet Remington II世が、自分用にライフルを作り、それを見た射撃仲間が彼にライフル製造を依頼した。レミントン社の歴史はここに始まっている。1816年のことだ。
現在のレミントン社は、ロングガンメーカーであるが、かつてはピストルも製造していた。コルトの持つリボルバーのパテント満了を待って1857年に製造した5連発、.31口径のパーカッション、レミントン・ビールス・リボルバー(Remington Beals Revolver)がレミントン製レボルバーの始まりだ。Bealsとはレミントン社の技術者、フォーダイス・ビールズの名前から来ている。
1859年にはシングルショットのライダー・デリンジャー(Remington Rider Derringer)が登場した。Riderもレミントンの技術者ジョセフ・ライダーの名前を使っている。それに続きリボルビング・バレル6連発のジグザグ・デリンジャー(Zig-Zag Derringer). リボルビング・ファイアリングピンのペッパーボックス・ピストル, エリオット・デリンジャー(Remington Elliot Derringer)などが開発された。EliotはBeals, Riderと同じく、技術者ウィリアム・エリオットの名前だ。この3人が1850〜1860年代のレミントンを支える技術者だった。
そして1866年に登場したものが、有名なダブルバレル、オーバー&アンダー・デリンジャー(Remington Over/Under Derringer)だ。
ビールズ・リボルバーは1860年、44口径のビールズ・アーミー、36口径のビールズ・ネービーに発展した。この段階で、ローディング・レバーの部分が銃身先端部に向って流れる線を描く、レミントン・リボルバー独特のラインが形成された。
1861年、南北戦争が始まり、レミントン・リボルバーは多数が使われ、改良が加えられていく。レミントンM1861アーミー、M1861ネービーは, 1863年にニューモデル・アーミー、ニューモデル・ネービーとなり、これがレミントン・リボルバー最大の成功作となった。
シングル・ショットのローリング・ブロック・ピストルはライフルと同時に開発された。ライフルにおけるローリング・ブロックの時代が20世紀初頭に終焉を迎えるまで、並行してローリング・ブロック・ピストルも製造が続けられた。
1875年、当時のべストセラーであったコルト・シングルアクション・アーミーリボルバーに対抗すべく、非常に良く似たModel 1875シングル・アクション・アーミーが登場した。しかしレミントン・リボルバーの歴史は、その後継モデルModel 1890シングル・アクション・アーミーを最後に途絶えてしまう。
だがレミントンは、ピストルの製造を完全に止めたわけではなかった。19世紀末、アメリカ軍制式ピストル・トライアルがスタートする。このトライアルは、コルトが提出したブラゥニング設計のM1911ピストルが最終的に勝利した。しかしその決定までに、実に12年の歳月が経過した。このトライアル初期の段階で、レミントンはセミオートマチック・ピストルの図面を提出している。しかし、このときは図面の段階から先に進むことはなかった。
20世紀に入り、ブラゥニングが放ったモデルM1900ピストルの成功に刺激され、数多くのメーカーが32ACP、380ACPを使用するコンパクトなポケット・ピストルを開発していた。レミントンも、このカテゴリーでセミオートマチックピストル市場に参入した。それがモデル51セミオートマチック・ピストルだ。
レミントンはその設計をデンマークのデザイナーJohn D. Pedersen(ペダーセン)に委ねた。当時ペダーセンは多数のレミントン製品の設計に係わった。レミントン・モデルM10 スライドアクション・ショットガン、モデルM12 スライドアクション22口径ライフル、モデル M14(のちにM141)スライドアクション・センターファイア・ライフルなどだ。
ペダーセンがのちに開発したものとして最も有名なものは、ペダーセン・デバイス(Pedersen Device)だろう。スプリングフィールド モデルM1903ボルトアクション・ライフルに組み込むことで、これをセミオートマチック化させるユニットだ。
第一次大戦の直前、ペダーセンはM51ピストルの開発に取り掛かった。目指したものは、携帯性の高いセミオート・ピストルだ。

完成した形を見れば、ブラゥニングM1910ピストルに似ている。しかしペダーセンは安直にブラゥニングを真似たわけではない。
隠匿性の高い小型ピストルは、グリップの握りやすさを犠牲にしている場合が多い。しかしペダーセンは違う発想でデザインを進めた。レミントン社員の手の大きさを調べて回ったのだ。より多くの人の手に合った握りやすいモデルを作るためだ。たくさんのデータを集めた上でワックス・モデルを作り、実際に多くの社員に握ってもらって、最終デザインを決定した。
その結果、モデルM51ピストルの握り易さは格別なものとなった。銃自体は非常に薄くスライドの横幅は19mm(0.75インチ)しかない。しかしグリップ部分は多少盛り上がり、22.9mm(0.9インチ)の厚さがある。フレームのグリップ部分、フロント&リア・ストラップは微妙なカーブを描いて、この部分がこの銃を握りやすいものとしている。モデルM51ピストルが市場に登場した際に、レミントンは広告のコピーに
“fits in the palm like the hand of a friend”と、うたった。“友人と握手しているようなグリップ”というわけだ。このグリップの握り易さはブラゥニングM1910の比ではない。銃を標的に向けたとき、実に自然にポイントできる。射撃後のエイミング・リカバリーもやり易い。グリップの握り易さは銃の重要な用件だが、当時も今も、この事を重視して作られたコンパクトモデルは少ない。
しかし、このモデルの最大の特徴はグリップではなく作動方式にある。外観上、このモデルM51ピストルはストレート・ブローバックで作動するものだと誰もが思うはずだ。しかしモデルM51ピストルはディレイド・ブローバック・メカニズムを持っている。
スライドとブリーチ・ブロックは発射時に別の動きをする。発射直後、スライドとブリーチブロックは2mmだけ一緒に動く。その後ブリーチ・ブロックはフレームにロックされる。スライドのみ5mmほど動いたのち、ブリーチ・ブロックのロックが解けてスライドとともに後退し、ケースを引き出して放出する。
セミロックド・アクション(Semi-locked action)、ヘジテーション・システム(Hesitation system)、コンプレックス・システム(Complex system)、パーシャル・ブローバック(partial blowback)、パーシャル・リコイル・オペレーティッド(partial recoil operated)など、モデル51ピストルの作動方式に対する様々な呼び名がある。
セフティはマニュアル・セフティ、グリップ・セフティ、マガジン・セフティの3つが組み込まれた。
グリップ・セフティはその名前の通り、握り込まないとトリガーが引けないものであるが、M51はそれに加えてコッキング・インジケーターの機能をここに追加した。ストライカーがコックされていないときはグリップ・セフティは外に出ていない。グリップセフティを押し込めるということは、ストライカーがコッキングポジションにあるということを示している。またスライドストップ・リリースとしての機能もある。最終弾を撃つとスライドはオープンポジションで止まる。マガジンを交換し、グリップセフティを握りこむとスライドはリリースされ前進する。この機能をグリップ・セフティに組み込んだ例はほとんどない。
しかし、このモデルは当初からこのような多数のセフティを装備していたわけではない。1917年にパテントを申請した段階では、グリップ・セフティのみを装備するピストルとして試作されていた。グリップ・セフティさえあれば、十分な安全を確保出来る、開発当初はこのように考えられていた。しかし、その後、安全性を高めるべく、マニュアル・セフティとマガジン・セフティが追加された。
レミントンM51ピストルは1919年に発売された。これは380ACPモデルで、2年遅れで32ACPモデルが1921年に登場した。海軍は発売間もないレミントン モデルM51ピストルを購入して使用した。写真のモデルは海軍仕様だ。トリガーガード右側面、錨のマークが見える。
このピストルの評判が海軍内部で良かったため、レミントンは海軍からスケールアップ・モデルを依頼されたらしい。45ACPを使用するセミオートマチック・モデルだ。
レミントンの45ACP試作モデルは、M53ピストルと呼ばれた。メカニズムはモデルM51ピストルと同じだが、こちらはエクスターナル・ハンマー(ハンマー露出式)だ。
アメリカ海軍によるテストの結果、モデル53ピストルは準制式ピストルとして採用された。しかし、その後すぐにこの決定は取り消された。軍の中に2種類の全く違うピストルが採用されることでの、混乱を防止するためだった。1923年、モデルM53ピストルは陸軍のテストも受けた。しかし結果は不採用で終わってしまった。
“軍制式にならず”この結果を受け止め、レミントンはM53ピストルを量産に移すことを中止した。
モデルM51ピストルは1919年から1927年まで64,000挺製造された、とされている。一方、1934年まで製造が継続されたという説もある。しかしレミントン社は1925年、Remington Arms U.M.C. CompanyからRemington Arms Companyに社名変更した。このM51ピストルのグリップにはRemington U.M.C.と大きなマークが入っている。すると1925年以降はグリップのマークをRemington Armsのマークに切り換えるはずだ。しかし、モデルM51ピストルのオリジナルグリップはそのほとんどにRemington. UMCのマークの入っている。社名は変わったが、グリップ部はそのまま旧社名が入ったにものを使い続けた。これは金型を修正するコストを節約したためだ。
第二次大戦中OSS(Office of Strategic Service:戦略情報部)に支給されたピストルは、コルト モデル M1908ピストルであった。しかし彼らの一部はモデルM51ピストルを好んで使用した。リコイルスプリングがバレル下部に平行して置かれているM1903と比較してバレル外周にリコイルスプリングが設置されたM51の方がコンパクトであり、コンシーラブルだからだ。
レミントン社はモデルM51ピストルの製造を中止した1926年(または1934年)以降、ピストルの製造を行っていない。
第二次世界大戦中、モデルM1911A1ピストルの生産が間に合わず、コルト社以外で製造したメーカーのひとつにレミントン・ランド社(Remington Rand Corporation)がある。レミントン・ランドによるモデルM1911A1ピストルの製造は1,032,000挺にのぼった。これをもってレミントン社がモデルM51ピストル生産終了後もピストルを生産した実績があると勘違いしてしまう恐れがある。
しかしレミントン・ランドはタイプライターとオフィス用品のメーカーであり、銃メーカーのレミントン社とは別会社だ。もっとも全く関係のないというわけではない。銃メーカーであるE.Remington & Sons社は1873年、ソーイングマシーン(ミシン)の製造をはじめ、1876年、Christopher Latham Sholesよりタイプライターのパテントを買って、タイプライター製造を始めた。
しかし1886年、E.Remington & Sons社はタイプライタービジネスをWyckoff, Seamans & Benedict に売却、1905年に社名はRemington Typewriter Companyに変更された。1927年、Remington Typewriter Company は Rand Kardex Company.と合併し、Remington Rand Corporationとなった。
したがってレミントン・ランド社は、当時既にレミントン社とは関係がなくなっていた。
レミントン・ボルトアクションライフルM600をベースにして製造されたボルトアクション・シングルショットピストルにXP100というモデルがある。これは片手で発射が可能だから分類上はハンドガンだろう。しかしこれはあくまでもライフルの派生形だ。
モデルM51ピストルは実質的にレミントン社最後のピストルということになる。ブラゥニングM1910、コルトM1903, M1908などのように、よく知られたモデルではない。だが、当時主流であったそれらと比べても、けっして劣ってはいなかった。
現代のセミオートマチックと比較すれば戦闘能力は大幅に劣る。しかし、現代銃からは味わえない、道具としての美しさがある。そしてレミントンの名を冠する以上、コピーではなく独自のメカニズムを持たせようとしたことに、当時のガンデザイナーが持っていたプライドを感じることができる。
Sep.9, 2004
Satoshi Maoka
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