Pistols & Revolvers in the conflict INDEX
第一次大戦勃発 Part 6: イギリス参戦
Nagant M1878,M1883,M1895 ナガンM1878, M1883, M1895
Fabrique d'armes Emile et Leon Nagantは、エミール・ナガンEmile Nagant(1830-1902)とレオン・ナガンLeon Nagant (1833-1900)のナガン兄弟によって、1859年、ベルギーのリェージュ(Liege)に設立された。
リェージュは古くからベルギーにおける銃器製造の集積地であり、ナポレオン戦争の対ロシア戦争の兵器供給地として発展をとげ、多くの銃器製造業者がここで活動していた。
ナガンは、設立当初は機械製造業であったが、翌1860年に銃器製造に事業転換した。初期の製品としてパーカッション・ライフルを改造して室内射撃用としたサロン・ライフルがある。
1867年、ナガンはレミントン(E.Remington & Sons)と提携した。当時のレミントンは単発ブリーチローリングのシステムを使った銃の製造に力を入れており、ヨーロッパで拡販をするため、製造拠点を探していた。創業から7年目のナガンは、その生産規模がレミントンの求めるレベルと合致した。
ナガンも、レミントンと提携することで事業を拡大するチャンスと見た。契約は締結され、ナガンでローリング・ブロック・ライフルとピストル(2連発)のライセンス生産が行われた。
1863年、レミントンのレオナード.M.ガイガーがパテントを取得したローリング・ブロック・アクションは金属薬莢を使用するシングルショット・後装式アクションだ。当初はスプリット・ブリーチと呼ばれた。その後、ジョセフ・ライダーにより改良されたレミントン・ライダーアクションが、1865年に発表された。
ハンマーが機関部後端に露出しており、ハンマーを起こした後、ブリーチブロックを後方に回転させるとチャンバーが現れる。ここに弾薬を装填し、ブリーチブロックを前方に回転させると発射の準備が整う。
発射後、ハンマーを起こし、ブリーチブロックを開くと、エキストラクターが働き、ケースが排莢される。
1870年にはアメリカ海軍と陸軍の一部が制式採用し、レミントンライフルはモデルM1870 Navyライフル, モデルM1871Armyライフルとなった。金属薬莢が登場して間もないこの時代において、ローリングブロック・アクションはハイパワー・ライフルの主流であり、バッファロー・ライフルやロングレンジ・ライフルが作られた。しかし、構造上、シングルショットにならざるを得ない欠点を持っていた。
ナガンが製造したローリング・ブロック・ライフルは、バチカン市国の衛兵用として採用された。ナガンは単にレミントンの設計のままローリング・ブロック・ライフルを製造していたのではなく、独自の改良も施した。このナガンによる改造モデルは、レミントン-ナガンと呼ばれている。
ナガンはローリングブロック・アクションばかりを作っていたわけではない。1876年、ギリシャ軍向けに11mm口径のフォーリング・ブロック(falling block)アクション・ライフルを生産した。
フォーリング・ブロック・アクションはトリガーガード部のレバーを前方に動かすことで、チャンバー後部のブリーチ・ブロックが垂直に下降し、チャンバー部がオープンする構造だ。シンプルで強度も高く、シングルショットのみだが、操作が容易で、素早い装填が可能になった。
1877年、ナガンはローリングブロックの口径9mmダブルバレル・ハンドガンを生産した。これはベルギーの憲兵隊によって採用された。しかしその数は少ない。時代はもうリボルバーの時代だった。
ナガンはベルギー政府の要請を受けて軍用リボルバーの開発に着手していた。そしてモデルM1878が登場する。これは6ショット・ソリッドフレーム・ダブル&シングルアクションで、ベルギーをはじめとする複数のヨーロッパの国々が軍用として採用した。口径9mm、5.5インチのオクタゴン(octagon)バレルを持つ。
ナガンのリボルバーは、リェージュの銃器発明家ヘンリー・パイパー(Henri Pieper)が開発したものと非常に似ている。19世紀後半ベルギーには多数の小規模銃器メーカーがあった。彼らは同業者として横の繋がりがあり、サロンに集まって様々な意見交換をおこなっていた。エミール・ナガンはそこでヘンリー・パイパーから多くのヒントを得た可能性が高い。
モデルM1883はM1878の改良モデルで、外見的な変更点はノンフルーテッドシリンダーとなっている。これは1886年ノルウェー軍およびデンマーク軍に採用された。またベルギー軍の下士官、また砲兵、及び突撃隊用として採用された。

M1878およびM1883は1886年に小改良が加えられ、ベルギー軍はこれらナガン・リボルバーをその後、約半世紀後の1940年まで使い続けられた。
1887年、スェーデンでは無煙火薬を使うモデルM1887 リボルバー口径7.5mmを採用した。のちにハスクバーナ(Husqvarna)でこれを国内生産している。
セルビアは7.5mmモデルM1891リボルバーを採用した。また口径44のモデルがブラジル、アルゼンチンで採用された。その他、ナガン・リボルバーを購入した国は、オスマン・トルコ帝国、エジプト、中国などがある。
ナガンそれらに続いて画期的なガスシールシステムを持つリボルバー、モデルM1895を開発するに至る。
1888年、ロシアはそれまで使用していた黒色火薬を使う単発のベルダン(Berdan)ライフルを、無煙火薬を使う小口径ライフルに交換する計画をスタートさせた。この時、ロシアがコンタクトをとったのはベルギーのナガン社だった。
19世紀中頃以降、ロシアは様々な国から数多くの兵器を輸入していた。ベルダン・ライフルはコルトが製造権を得て製造したものだ。この時期、ロシアはアメリカとの繋がりが深かった。S&W No.3リボルバーは将校制式ピストルに採用され、これはラッシャン(Russian) リボルバーとしてロシア軍が使用した。ガトリング・マシンガンはゴルロフ・マシンガンと名を変えロシア軍に採用された。
フランスで無煙火薬が開発されると、各国はこぞってこの新型弾薬を使う新しいライフルの開発を急いだ。しかし、この時期、アメリカの兵器産業はヨーロッパに遅れをとっていた為、ロシアはベルギーに接近した。ベルギーは小国ながら、リェージュという兵器生産地を持ち、ロシアの要求に応えることができる。またベルギーはフランス語圏であり、ロシアの上流階級はフランス語を話していた。そのため意志の疎通も容易だった。
ロシアが選んだベルギーのパートナーがナガン社であった。エミール・ナガンとロシア軍のセルゲイ・イワノビッチ・モシン少佐(Sergei Ivanovich Mosin)は共同で新しいボルトアクション・ライフルを開発し、1891年にロシア軍に採用された。これがモシン・ナガン(Mosin-Nagant) モデルM1891ライフルだ。もっともエミール・ナガンが担当したのはマガジンの部分で、ボルトアクション・メカニズムはモシン少佐の考案だ。
採用当時のロシアはこのライフルを大量に生産できず、フランスのシャーテルロー造兵廠、オーストリアのシュタィアーなどで製造された。第一次大戦が始まると、アメリカのレミントン社、ウェスティング社などでも生産された。
ライフルが採用された後、ナガンはロシア軍が使用する黒色火薬のS&W No.3ラッシャン(Russian) リボルバーをナガン・リボルバーに変更するように、ロシア軍に働きかけた。
黒色火薬に比べて無煙火薬は高速で弾丸を発射でき、弾丸の口径を小さくしても高い威力が期待できる。弾薬を小型にすることで、銃自体を小型軽量化させることができた。しかしリボルバーは、シリンダーとバレルの間のシリンダー・ギャップから、ガスが漏れてしまい、初速が低下して弾丸の威力を落としてしまう。
この欠点に対し、エミール・ナガンは、ガス・シールによりシリンダーギャップを無くすことで初速低下を防止した。
シリンダー前面、チャンバー毎にリング状の溝が切られており、ハンマーを起こすと、シリンダーが回転後前進して、バレル後部に密着する。さらに使用する弾薬は特殊なもので、弾丸部分がケース(薬莢)内部に入り込んでいる。前進してバレル後部に密着したシリンダーの中で、このオーバーサイズのケース(薬莢)はバレル後端部に入り込む。
トリガーが引かれて、弾丸が発射される時、このケースは押し広げられ、バレル後端と密着し、ガスシールをより確実にする。これにより初速の低下を防ぐのだ。このガスシールの有無で、概ね15〜45m/s(50〜150fps)の差が生じる。
エミール・ナガンは1892年、このガスシールシステムのパテントを取得した。しかし、よく似た内容のパテントはすでに1886年、ヘンリー・パイパー(Henri Pieper)によって取得されていた。
ヘンリー・パイパー(1840-1898)はドイツ・ベェストファーレン生れの銃器設計者で、1866年、リェージュのガンメーカーにじゅうぶんなライフルバレルが供給されていないことを見抜き、小さなライフルバレル製造工場を作った。銃器メーカーにライフルバレルを供給して会社を成長させ、それと共にいくつかの銃器製造パテントを取得するようになった。その中にガスシールのパテントが含まれている。このパテントは当初、ライフル製造のために使われた。しかしパイパー社では、このパテントを活かしきれず、大きな成功を得ることなく終わった。
ナガンは5年後、同じようなガスシール・メカニズムのパテントを申請し受理された。ナガンはロシア軍向けの新しいリボルバーに、このガスシールシステムを採用した。そしてこのガスシール・メカニズムが功を奏し始め、ナガン モデルM1895リボルバーはロシア軍の制式リボルバーに選定された。

ロシア軍用リボルバー、ナガンM1895は、始めリェージュのナガン社で製造され、ロシアに向けて出荷されるようになった。
1900年になると、ナガン社からロシア軍向けの出荷は終わり、ロシアのツーラ(Tula)造兵廠でこのナガンモデルM1895リボルバーの製造が開始された。
ナガンモデルM1895リボルバーは、ダブルアクションとシングルアクションを組み合わせた通常のモデルの他に、シングルアクションのみのモデルや、スイングアウト・シリンダーを装備させたモデルも製作された。
ロシアの制式ライフル開発をおこなうなど、19世紀後半のヨーロッパの銃器製造会社として手広くビジネスを展開していたナガンであったが、時代を乗り越えることなく、その後、消滅してしまった。1896年、エミール・ナガンが病に倒れ(1902年死去)、兄弟で運営していた会社は解散した。レオンは新たに"Fabrique d'Armes Leon Nagant".を設立、彼の二人の息子がこの会社に加わった。しかり息子たちの興味は銃ではなく、その時代に新たに登場した自動車に向けられていた。
1900年、レオン・ナガンが死去するとまもなく、会社は自動車製造業に切り替えられ、19世紀に隆盛を極めたナガンの銃器製造の歴史はあっけなく途絶えてしまった。

第一次大戦勃発 Part 6 : イギリス参戦
イギリス外相グレイはバルカン半島の紛争に対し、調停すべくオーストリアとロシアの直接交渉を提言、戦争回避に向けて努力した。またイギリス、ドイツ、フランス、ロシアの4国外相会議も提案している。しかし各国の足並みは揃わず、これら和平に向けた努力は実を結ばなかった。
当初、このバルカン半島の紛争に対するイギリスの立場は、あくまでも対岸の火事というものだった。これは言葉通り、ドーバー海峡の対岸だ。
フランスやロシアとイギリスは同盟関係にあったが、その同盟には軍事援助の義務も、参戦し共に戦うような条文は無い。
しかしドイツがドーバー海峡を軍事基地に使うとなれば、話は違う。ドイツがベルギーに侵攻、場合によってはベルギーを併合することなどイギリスにとっては許すことは出来ない話だ。ベルギーはイギリス防衛聖地のひとつだった。
ドイツの台頭は、やがてイギリスの世界覇権を脅かす。内相チャーチル(Winston L. Churchill)はドイツを叩くべく主戦論を展開する。しかし、その時点でもなお、イギリス議会の大半は戦争反対の側に立っていた。
しかしドイツの側から見れば、イギリスはロシア、フランスと共に、対ドイツ包囲網を構築すべく画策していると映った。
ロシアの総動員体制、ドイツの臨戦態勢布告が確実になった時、イギリスは一気に戦争に向けて舵を切り直した。
ドイツが中立国ベルギーに対して軍事的な侵攻を行なわず、中立を保証する確約をイギリスはドイツに求めた。それがイギリスがこの戦争に参戦する事を回避するための、ギリギリの条件だった。しかし、イギリスが望んだ回答は得られなかった。8月4日、イギリスはドイツに最後通牒を突きつけた。ドイツはこれを無視、イギリスは同日、宣戦布告を行うに至った。
ベルギー防衛を主目的とし、イギリスは歩兵四個師団、騎兵二個師団をフランスに派遣した。
イギリスは望まないまま、この戦争に巻き込まれて行った。この戦争にどう関わろうとも、イギリス世界覇権の時代は終わろうとしていた。世界の工場として繁栄を謳歌し、世界の覇権国家、陽の沈むことのない帝国、そんな大英帝国にとって第一次大戦は大きな転換点となったのだ。
April 1, 2005
Satoshi Maoka
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