Pistol & Revolver in the conflict INDEX   
                第一次大戦勃発 Part 5 : シュリーフェンプラン

Ordnance M1892 Revolver (Lebel Revolver)

 19世紀初頭、ナポレオン・ボナパルトによりイギリス、スウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧したフランスは、ヨーロッパ最大の陸軍国であった。しかし、その100年後、第一次大戦勃発時のフランス軍の装備は、近代化に遅れをとったものとなっていた。
 基本的に農業国であるフランスは、兵器生産能力がじゅうぶんではなかった。しかし、広大な植民地を有することから、巨大な軍を保有していなければならなかった。新型兵器を採用しても、それで全軍の装備を更新しようとすると、大変な負担となってしまう。そのため新旧の兵器はフランス軍の中で混同して使い続けられた。
 1884年、フランス人科学者M.ビェーユは無煙火薬(smokeless powder)を発明した。燃焼速度の速い無煙火薬は、黒色火薬を使用した場合と比較して、軽量な弾丸でも十分なパワーを与えることが出来る。
 フランス軍は早速この無煙火薬を使用し、小口径化した8mm×50.5R弾薬およびM1886ライフルを制式兵器として採用した。M1886ライフルは、フランス・サンテ・ティエンヌ造兵廠設計主任であるニコラス・レベル(Nicolas Lebel)中佐が開発したため、一般的にレベル(Lebel) M1886ライフルと呼ばれている。
 フランス軍は1873年、金属薬莢を使用するリボルバーを制式採用した。片手で連続射撃が出来るリボルバーは、騎兵にとって便利な兵器だった。そのため、このリボルバーはキャバリー・リボルバー(cavalry Revolver)M1873と呼ばれている。
 モデルM1873リボルバーはシャメロー・デルビンが設計したダブルアクションで、ノンフルーテッド・シリンダーを装備、ソリッドフレーム、ローディングゲート方式の口径11mm 6連発だった。翌1874年、フルーテッド・シリンダーとしてわずかに軽量化したものが, 将校用オフィサー・リボルバー(Officer Revolver)M1874として採用された。
 フランスは、このM1874リボルバーの後継モデルとして、無煙火薬の小口径オーディナンスM1892リボルバー(Ordnance Revolver)を開発した。これはライフル同様に一般的にLebel M1892リボルバーと呼ばれている。
 しかしこの銃はレベル中佐が開発したものではない。サンテ・ティエンヌ造兵廠が開発したもので、そこの設計主任はニコラス・レベル中佐であったが、彼はこのリボルバーの開発には直接関わっていなかった。

                        Level M1892 Revolver

  オーディナンスM1892リボルバーは、旧M1874リボルバーからの発展改良型ではない。ダブルアクションシステムは、ハンマーにダブルアクションアクセルを装備した新しいデザインを採用、またローディングゲートから1発づつ装填する方式を改め、スイングアウト・シリンダーとした。
 スイングアウト・シリンダーはこのモデルがヨーロッパ最初の量産モデルとなった。スイングアウト・シリンダーは新しい形式ではあるが、パーカッション・リボルバーの時代から、再装填の際にシリンダーそのものを取り外して、新たに装填済みのシリンダーと交換してしまうということが行われていた。このシリンダーを外すということを変形させ、排莢装填を容易にしようとたものがスイングアウト・シリンダーという形になった。
 最初にスイングアウト・シリンダーを採用したリボルバーはウィンチェスターの試作リボルバーだと言われている。19世紀後期、オールドウエストを席捲した銃として知られるものは、コルト・シングルアクション・アーミー・リボルバーであり、ウィンチェスターM73ライフルだ。両社の製品は、ウィンチェスターが開発した44-40弾薬を使用するということでも共通している。コルト社はリボルバー、ウィンチェスター社はライフルということで一種の棲み分けがなされていた。
 コルト社はリボルバーにストックを付けたリボルビング・ライフルを製造していたが、ここまでは棲み分けの許容範囲だった。ところがコルト社がレバーアクション・ライフルを製造し、製品として販売しようと企画していることが判明した。これはアンドリュー・バージェスがデザインしたウィンチェスターM73の改良型だ。
 こうなるとウィンチェスターも黙ってはいない。ウィンチェスター・リボルバーが企画され、それにはスイング・アウト・シリンダーが搭載されていた。当時、ウィンチェスターに席を置いていたヒューゴ・ボルヒャルドがS.W.ウッドと共に設計したものだ。
 コルト・シングル・アクション・アーミーは強度の高いソリッド・フレームであったが、ローディング・ゲートから1発づつ排莢装填する。スイングアウト・シリンダーはソリッドフレームの強度をそのままに、素早い排莢装填が出来る。これが市販されれば、コルト・シングルアクション・アーミーの販売に大きな打撃が加えられるだろう。結局、コルト社はレバーアクション・ライフルの製造を6,403挺売ったところで断念し、それを受けてウィンチェスター社もリボルバーの製造開発を中止した。1885年の事だ。
 フランスのモデルM1892リボルバーはヨーロッパ最初にスイングアウト・シリンダー・リボルバーだが、スイングアウトする方向は、右方向となっている。のちにリボルバーはスイングアウト形式が普及したが、ほとんど左方向にスイングアウトするものとなった。右側スイングアウト形式は、全く他に例が無いわけではないが、その種類は非常に少ない。

                 世界的に見ても稀な右swing out cylinder

 右側スイングアウトとした理由として、この銃が騎兵用という位置付けであったことが挙げられる。リボルバーを騎兵が馬上で使用した場合、左側にスイングアウトしたのでは、まだ熱いケース(薬莢)が馬の背中に落ち、馬が熱い思いをして暴れてしまう可能性があった。それを避けるために右方向にスイングアウトするようにした。これなら、排出したケースは馬の背中ではなく、右側に落ちるように出来る。但し、操作性は良くない。
 もうひとつの理由としては、それまでのソリッドフレーム・リボルバーが、右側にローディング・ゲートを持っていたことから、同じようにフレーム右側のレバーを設けた結果、同じ方向へシリンダーを開くことになったと考えられる。フランスのモデルM1873, M1874リボルバーも右側にローディング・ゲートを持っていたため、軍としては可能な限り近い操作性の銃を採用したかったため、このような形になったようだ。モデルM1873, M1874リボルバーのローディング・ゲートとモデルM1892リボルバーのシリンダー・ラッチの形状はほとんど同じだ。
 オーディナンスM1892リボルバーがスイングアウト・シリンダーという新しい形式を採用した背景には、当時既に実用化に向って開発が進められていたセミオートマチック・ピストルの存在がある。当時のセミオートマチック・ピストルはまだ信頼性が乏しく、実用に堪えるだけのものではなかった。しかし、マガジンを使用することにより瞬間的に再装填可能で、装弾数も多く、本体も薄く作ることが出来る。フランスは、軍制式ピストルをセミオートマチック化させようという考えもあった。しかし結果として無難なリボルバーを選択した。
 しかし、セミオートマチック・ピストルが持つ再装填を素早さと、銃本体の薄さという特徴を少しでも取り入れたかった。そこでモデルM1892リボルバーはスイングアウト・シリンダーを採用し、銃自体の厚さを薄くするために8mmという小さな口径を採用した。
 このオーディナンスM1892リボルバーに使われた8mmレベル・リボルバーカートリッジの威力はけっして高くない。8g(102gr)の弾丸を625fps. 104ft.lbsで発射する。フランス軍はもともと、リボルバーを戦闘用兵器とはあまり考えておらず、むしろ将校や騎兵部隊のステータス・シンボルと見ていたため、小口径化にあまり抵抗が無かったらしい。このカートリッジを使用するリボルバーは他に、ベヤード(Bayard)やPiperがある。
 しかしフランス軍は無煙火薬の威力を過大に評価していたようだ。いくらステータス・シンボルといっても軍用としてみた場合、威力は低過ぎる。口径は8mmではなく9mmとするべきだった。しかしフランス軍は、第一次大戦終結後もピストルの威力アップの必要性を認めず、1925年にセミオートマチック・ピストル用の弾薬MAS7.65モデル1925を制式採用した。戦争は勝った場合、勝者はそこから教訓を得ることを怠るものらしい。
 オーディナンスM1892リボルバーは、フレーム後方、右側面に大きなネジがついている。このネジを緩めるには、ケースのリムを使うことが出来る。ネジを緩めたら、左側のフレームの側板が、トリガーガード前部を軸に、大きく開くことが出来る。この側板を扉のように開くことで、内部のメカニズムを簡単に確認出来るし、クリーニングも容易だ。
 このサイドプレートを扉のように開く形式は、モデルM1873リボルバーにシャメロー・デルビンが採用したことが最初だ。その後、ガッサー・リボルバーや26式、ナガン・リボルバー等もこの形式を採用した。モデルM1892リボルバーにも継承されている。
 サイドプレートを取り外すのではなく、片側を留めておく理由は、サイドプレートの紛失防止という意味を持っている。外れなければ無くすこともないわけだ。何ともとってつけたような理由だが、軍用銃の場合、これは重要な要件だ。メンテナンス時に部品を無くしてしまえば銃として機能しなくなる。軍に所属する兵士や士官がみな銃の取扱いの専門家というわけではない。雑多な人が集まり構成されているのが軍の実態だ。射撃愛好家やハンターの方が銃の扱いに精通し、複雑なものでも使いこなす場合が多い。
 軍用銃のすべてが、パーツ紛失を防止するべく、このような方法をとっているわけではない。しかし、できるだけ部品紛失を防止しようという方針でパーツを構成している。このモデルM1892リボルバーのサイドプレートを留めている右側後方のネジは1つだけで、かつ非常に大きい。ネジが大きければ小さいものより紛失しにくい。さらにフレームから抜き取れないような形式にしてある。
 ネジが大きいのは、このネジを8mmレベル・リボルバーカートリッジのリム部で回せるようにしたから、という理由もある。

 シリンダーには、中間と後部に2つのシリンダーストップがある。後方はトリガーを引いた時のロックで、シリンダーの中間にあるものは、トリガーが前進しているときにシリンダーを固定するためのロック用溝だ。
 シリンダーストップを2つ設けた理由は、シリンダー固定用のノッチをシリンダー後方に置きたくなかったためだ。シリンダー固定用ノッチは深く食い込んで、確実な固定をする必要がある。そうするとシリンダーの一部を削りこむことになり、部分的にシリンダーの壁面を薄くしてしまう。オーディナンスM1892リボルバーは小型化させるためにシリンダーも出来るだけ小さく作った。その上、シリンダーストップのノッチを深くすると、シリンダー壁面が薄くなり過ぎる。そこでシリンダーの固定はノッチではなく、シリンダー側面に突起を設けることで対応したわけだ、
 モデルM1874リボルバーは軍将校用という位置付けだった。このオーディナンスM1892リボルバーはモデルM1874リボルバーの後継機として開発され、交代するかたちで採用が進んだ。口径が11mmと大きい一般兵士用M1873リボルバーは、そのまま採用が継続された。
 第一次大戦においてフランス軍の装備は新旧入り混じったものであったことは最初に述べたとおりだ。リボルバーも例外ではない。第一次大戦において、フランス軍は明らかに旧式であるM1873リボルバーと、比較的新しいオーディナンスM1892リボルバーを混同して使用した。それでも数量が足らず、スペインのスターやルビー・ピストルも使ったし、同じくスペイン製のコルトやS&Wコピーのピストルも使った。
 1922年、フランス軍はセミオートマチック・ピストル採用に向けて研究を開始した。これを受けてオーディナンスM1892リボルバーの製造は、1924年に中止された。しかし、オーディナンス1892リボルバーはフランスの警察官に継続使用され、実に1970年代に入ってまでも、なお少数が使用されていた。
 またベトナム戦争初期の戦場に投入されたフランスの植民地軍の手にはかなり多数のM1892リボルバーが握られていた。19世紀に制式採用されたこのリボルバーは、20世紀の後半になっても一部現役として使われていたのである。

第一次大戦勃発 Part 5 : シュリーフェンプラン

 7月31日、ドイツはロシアに対し、総動員令撤回を求める最後通牒を出した。そしてフランスに向けて、ドイツ・ロシアが開戦の場合、中立の立場をとるか否かの回答を最後通牒として求めた。
 1891年に結ばれたロシア・フランス同盟は、第三国からの脅威に対して、相互援助を義務付けている。ロシアの総動員令発令に対し、フランスは同盟国として協力する義務があるわけだ。
 ロシアとフランスはドイツを東西から挟み込んでおり、かつてビスマルクは、ロシアとフランスが手を組むことを極端に恐れ、さまざまな手段で両国間の同盟成立を阻止し続けていた。
 8月1日、ロシアはドイツの最後通牒を無視、フランスは「利益の命ずるところに従って行動する」と答え、フランス全軍を動員した。
 ドイツはビスマルクが恐れていたフランス・ロシアに敵として挟まれるという事態に直面した。
 しかし、これは既に予測されていたことだ。ドイツの参謀総長であったシュリーフェン(Alfred von Schlieffen)将軍は、いずれフランス・ロシア両国を敵に回して戦うことになると予測し、その為の戦術 “シュリーフェン・プラン”を20世紀初頭より準備していた。
 これはまず全ドイツ軍でフランス軍を攻撃する。ロシア軍の展開は鉄道網の不備から緩慢であり、この間約6週間でフランスを落としてから、全軍を東に反転させロシア軍を叩くというものだった。
 全軍の8分の7を西部戦線に集中させ、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグに侵攻し、北からフランスを攻撃する。一部はパリの西を周り、南からも包囲する。ドイツはこの作戦を成功させるために、各個撃破と、殲滅戦の訓練を徹底して行った。
 シュリー・フェン将軍はすでに他界し、後任の参謀総長は小モルトケ(Helmuth Joann Ludwig von Moltke)だ。彼はシュリー・フェン・プランを手直しし、独自の作戦に変えている。
 ドイツは8月1日、最後通牒を無視したロシアに対し、総動員令を下した。翌2日、ベルギー政府に対し、フランス攻撃の為にベルギー領内に侵入する許可を求めた。ベルギー政府はそれを直ちに拒否する。
 ベルギーは地政学上、イギリス、フランス、ドイツ3国および北海を結ぶ軍事戦略上、重要な位置にある。1830年、ベルギーはイギリス、フランス、プロイセン、オーストリア、ロシアを保障国として永世中立となった。
 しかし1904年、シュリーフェンプランの存在が知られるようになり、イギリス軍はベルギーを防衛拠点として15万名もの軍を展開させるようになった。だがベルギーが1908年、コンゴ(現在のザイール)を併合すると、イギリス・ベルギー関係は悪化し、イギリス軍は撤退した。
 ドイツのフランス攻撃を目的としたベルギー侵入許可要請に対し、ベルギーは断固拒否する。ベルギー防衛のための援助をフランスが提案したが、これも拒否し、あくまでも永世中立国として自ら自国を防衛する方針を示した。
 しかし軍事力の差は歴然としており、8月3日、あっさりとドイツ軍の侵攻を許してしまった。

Oct.14, 2004
Oct.26, 2004 Revise
Satoshi Maoka

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