Pistols & Revolvers in the conflict INDEX

                  第一次大戦勃発 Chapter 3 : 最後通牒

Browning M1903 ブラゥニング(ブローニング)モデル1903ピストル

 ジョン・モーゼス・ブラウニングは1897年4月20日、USパテント#580926を獲得した。このモデルの製造販売の権利はアメリカのコルト社が獲得したが、結局コルトはその製品化を見送った。代わってそれを製品化したのは、ベルギーのFN社で、FN モデルM1899ピストルとなった。コルトが求めていたのは、もっとパワーのあるミリタリー・ピストルだった。
 コルトが市場に放った最初のセミオートマチック・ピストルは、ブラゥニングのUSパテント#580924に基づいて完成したコルトモデルM1900ピストルだ。38ACP弾を使用し、ショート・リコイルメカニズムを持つコルト モデルM1900ピストルは、アメリカ陸海軍にテスト用として提出されたものの、約4年の間に、たった3,500挺が製造されたに過ぎない。
 一方、単純なブローバック方式のFNのモデルM1899ピストルは、すぐに改良されFN モデルM1900ピストルとなり、市場で大成功を収めた。製造中止までの11年間に実に724,450挺が製造された。
 これに気をよくしたFN社は、続く製品の開発をブラゥニングに依頼した。ブラゥニングは、M1900と同じストライカー形式のプロト・タイプを試作したが、その後、形式をハンマー内蔵型に変更した。
 USパテント#747585に基づいたFN モデルM1903ピストルは1902年に生産が開始された。
 モデルM1900ピストルが民間や警察での使用を想定して製作されたのに対し、今回のモデルM1903ピストルは、ミリタリー用としての需要を狙ったものだ。しかし構造は単純なブローバックのままである。

 9mmブラゥニング・ロング、別名9mm×20SR(Semi Rimmed)のパワーは、弾頭重量116gr.でMV.1000fps, ME 255ft.lbs.というレベルだった。これは9mmパラベラムの115gr. MV1250fps, ME 399ft.lbsと比べてかなり弱威力だ。その為、シンプルなブローバック機構を採用出来た。
 アメリカは、この9mmブラゥニング・ロングと呼ばれた弾薬のパワーに懐疑的で、結局アメリカ国内ではこの弾薬を使うピストルは製造されることは無かった。
 そもそも、ブラゥニングは、アメリカ市場に対するピストルはコルトから供給させ、ヨーロッパ市場に対しては、FNが供給するという棲み分けを図っていた。同時期、アメリカ市場に投入されたものがコルト モデルM1903ポケット・ピストルだ。これも同じUSパテント#747585を元にしている。こちらの口径は32ACPだ。その後、1908年に同型で380ACPを使用するモデルM1908ポケット・ピストルが製造された。
 コルト社とFN社のモデルM1903ピストルの構造は殆ど同じで、ハンマーはスライドに内臓(Internal hammer, 又はconcealed hammer)された。ハンマーがコッキング・ポジションにあるときのみ、マニュアル・セフティはオンになり, グリップ・セフティも握りこむことが出来る。これは一種のコッキング・インジケーターとして機能する。
 FNモデルM1903ピストルはチャンバーに9mmブラゥニング・ロング弾をロードした場合、スライド右側面のエキストラクターの爪が若干外に飛び出し、チャンバー・インジケータとしての機能を持つ。設計したブラゥニングは、この機能を付けようとは考えていなかったかもしれない。しかし9mmブラゥニング・ロングのケース(薬莢)はセミ・リムドの形状を持つのため、エキストラクターが飛び出すことになった。1970年代以降のセミオートマチックピストルには同様のエキストラクター兼用のチャンバー・インジケータが多く使われている。しかし、20世紀初頭のピストルではチャンバー・インジケータ付きはあまり例はない。
 FNモデルM1903のバレルは5個のロッキングラグでフレームに固定され、リコイル・スプリングはバレルと平行して下部に配置された。リコイルスプリングの配置位置は、今日の視点でみれば、ごく当たり前であるが、当時はセミ・オートマチック・ピストルの黎明期であり、各社様々の方法を試みていた。ブラゥニングはいち早く最適な位置を見つけ出していたことになる。但し、そのスプリング径は小さく、長期間の使用ではヘタリやすいものだった。

Husqvarna Model 1907   スウェーデン軍は1907年、ブラゥニングM1903を採用した。当初はFN社から購入していたが、ハスクバーナ社による自国生産が始まったのは1917年からだ。オリジナルとの最大の違いはグリップパネルのデザインに見られる。ブラゥニング M1903と同様に9mm Browning Longを使用するが、アメリカに輸入されたものの中には、あとで380ACP仕様にコンバートされたものがある。

 FNモデルM1903ピストルのスライドストップは、フレーム右側面に露出した形で配置された。スライドストップを露出させる場合、親指でコントロールするために通常フレーム左側面に配置する場合が多い。しかし、これも後の時代の話で当時、そのような発想はまだ確立されていなかった。
 FN モデルM1903はピストルとして極めてシンプルで、安全性も高く、使い勝手も良い。19世紀末から立て続けにパテントを登録し続けたブラゥニングは、ブローバックのセミオートマチック・ピストルについてはこのモデルで、早くも当時の完成域に近いものを作っていたといえる。
 FN モデルM1903はピストルは、タンジェント・サイト付きモデルも少数が試作された。当時、ドイツのマゥザー・ミリタリー・ピストル(通称:マゥザーコンストラクション96(C96)ピストル)の存在は、強い影響を市場に与えていた。このピストルに搭載された1000mの設定が可能なタンジェント・サイトは、どう考えても大げさなものだ。
 しかしそれはマゥザーC96ピストルを、実際以上に高性能なピストルであるという印象を多くの人に与えることに成功した。特に中国やロシアは、マゥザーを好んでいた為、FNモデルM1903ピストルも対抗する上で、同型のタンジェント・サイトを載せたモデルを試作した。しかし最大射程1000mという設定は、9mmブラゥニング・ロング弾にはあまりにも不釣合いだ。結局、これは試作されただけで終わっている。
 マゥザーミリタリーの影響は、もうひとつ、着脱式ストックという形でも現れた。ピストルにストックを付け、ピストル・カービンとして使用することは、20世紀初頭の流行であり、マゥザー・ミリタリー・ピストルはその代表的なモデルであった。当時、多くの種類のミリタリー・ピストルが、ストック装着モデルを試作し、その一部は実際にストック付きモデルを量産している。
 FN社も、このモデルM1903にストックを付けた試作品を作った。但し、グリップ・セフティのあるモデルM1903ピストルの場合、フレーム後部にストックを装着するスリットや突起を設けることは難しい。そこでFN社は、グリップ・ボトムに固定金具を付けられるように改造し、ストックは銃の後ろから、グリップの下部に滑り込ませるという方法をとった。
 しかし、そのままではストックを銃に固定しておくことが出来ない。後ろからストックを差し込んであるだけで、ストッパーが無い。その役目はマガジンが果たした。10発ロード出来る延長マガジンを差し込むことで、ストックの抜落ち防止が出来た。
 装弾数を多くすることは、10発を収容するマゥザーC96ピストルに対抗する意味でも有効な事であった。しかし、マガジン交換する際に、うっかりするとストックが抜け落ちてしまうということになりかねない。結局、このストック付きモデルも少数が試作されたに過ぎない。
 量産されたFN モデルM1903ピストルは、スェーデンとトルコで軍用として大量に使用された。FN社の母国ベルギーも、軍用として採用し、ナガン・リボルバーと併用した。スペイン、フランス、南米パラグアイも少数を使用、さらにロシアは、秘密警察用として5,000挺を購入している。
 FNモデルM1903ピストルは、1903年から製造中止になった1927年までに、FN社で合計58,442挺が生産されたことから、ビジネスとして一応成功したという事が出来る。1917年から、スェーデンのハクスバーナ社はFNモデルM1903ピストルをライセンス生産し、1942年までに94,731挺生産した。両社の生産数を合計すると153,173挺であった。

第一次大戦勃発 Part 3 最後通牒

 オーストリア・ハンガリーは、ドイツから支持の約束を得て、7月23日、セルビアに対して、48時間猶予の最後通牒を突きつける。
1. オーストリア・ハンガリー帝国にたいする憎悪と侮蔑を引き起こす、あるいはオーストリア・ハンガリー帝国の領土保全に反する内容を含む出版物を弾圧すること。
2. ナロードナ・オブラーナの解散と、その宣伝活動に対する司法手続きを開始すること。反オーストリア的姿勢を持つセルビア国内の団体を解散させる為の司法手続きを開始すること。セルビア政府は解散した団体が別の名前、形態で活動を再開しないことを確認すること。
3. 反オーストリア宣伝をおこなう、あるいはその可能性のある教育活動について、速やかに排除すること
4. 反オーストリア宣伝を行った全ての将校と官吏を軍隊および行政機関から追放すること。
5. オーストリア・ハンガリー帝国に反対する団体に対するセルビア政府の取り締まりに、オーストリア・ハンガリー帝国政府が参加することに合意すること。
6. セルビア国内にいる6月28日の謀議参加者に対し、司法尋問を実施すること。またその目的で派遣されたオーストリア・ハンガリー帝国政府の機関が司法手続きに参加出来ること。
7. 速やかに、ウォイスラフ・タンコシッチ少佐とミラン・チガノビッチを逮捕すること。
8.セルビア政府は武器および爆発物の密輸に関与しないこと。サラエボの暗殺者が国境を通過するのを手助けしたシャバッツとロスニチャの国境警備官を逮捕免職とすること。
9. 6月28日の暗殺事件以来、セルビアの政府高官が、オーストリアに敵対的な発言を行ったことについて、オーストリア・ハンガリー帝国政府に謝罪すること。
10. 以上の全項目について実行結果を速やかに帝国政府に通知すること。

 ナロードナ・オブラーナ(Narodna Obrana)は、反オーストリア活動を行う結社であった。約2,500名で構成され、セルビア政府により組織されたものではない。
 ウォイスラフ・タンコシッチ少佐とミラン・チガノビッチは、暗殺者に6個の爆弾と4挺のブラウニングピストルを渡したとされている。

 当初、セルビア政府はオーストリア・ハンガリー帝国からの最後通牒を、受諾する方向で動いていた。ところがロシアがセルビアを支持を表明した結果、7月25日、要求の6項目目についてのみ拒否した。
 それを受けたオーストリアは、最後通牒の全面拒否と受け取り、両国関係は一挙に緊張した。
 イギリスは両国の調停役として動き出した。フランス、ドイツ、イタリアに対し、危機打開のための大使会議を開催する。同時にセルビアとロシアに対し、戦争準備の中止を要請した。
 フランスとイタリアは戦争回避に向けた動きに賛成をしたものの、ドイツは7月27日、これを拒否した。ロシアはオーストリア・ハンガリーと戦争回避に向けての協議することとしたが、オーストリアがこれを拒否し、イギリスの調停交渉は失敗に終わった。
 そして7月28日、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに対し、宣戦布告を行った。

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Satoshi Maoka
Jan.28, 2004

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