Pistols & Revolvers in the conflict INDEX

                第一次大戦勃発 Chapter 2 : ドイツの世界政策

 Parabellum Pistole Marineのリアサイト部。100mと200mに対応するアジャスタブルタイプ。写真はP08 Marineのもの

ドイツ海軍制式ピストーレ1904(マリーネ・ピストーレ・モデル1904)までのパラベリューム・ピストル  

 ハイラム・ステベンス・マキシム(Hiram Stevens Maxim)は1883年、トグル・ジョイント・ロッキングを組み込んだマシンガンを発明し、特許を取得した。
 トグル・ジョイント・ロッキング・システムのアイデアは、1870年ごろから存在していたものの,マキシムはそれを利用して自動装填マシンガンの実用化を最初に成功させた。
 マキシム・マシンガンの成功により、多くの銃器設計者が自動銃の開発を進める事を勢いづけた。ヒューゴ・ボルヒャルト(Hugo Borchardt)もそんな銃器設計者の一人だった。
 ドイツで生まれたボルヒャルトは、成功の希望を胸にアメリカへ渡り、1875年に市民権を得て、アメリカ人となった。
 シャープス・ライフル社に銃器デザイナーとして勤務し、その後、ウィンチェスター社に移った。しかし、ウィンチェスター社で勤務していた期間は短かった。ボルヒャルトは、ウィンチェスター退社後、再びヨーロッパに戻ってしまった。
 どうやらアメリカ社会になじめなかったらしい。というより、彼がアメリカでの生活が続けられなくなった最大の原因は、ボルヒャルト自身の性格にあった。アメリカでのボルフャルトは、約束を守らない、信頼できない男だったと一部で伝えられているからだ。
 ヨーロッパに戻った彼は、ハンガリーのロイヤル・ハンガリアン社に勤務する。彼がそこに勤務していた1890年頃に、マキシム・マシンガンと同じトグル・ジョイント・ロッキング・メカニズムを組み込んだオートマチック・ピストルの開発を思い立った。
 トグル・ジョイント・ロッキング・システムを、オートマチック・ピストルのロックに使用することを思いついたきっかけは、マキシム・マシンガンだけでなく、アメリカ時代に勤務していたウィンチェスター社のレバー・アクション・ライフルにもあったと考えられる。
 トグル・ジョイント・ロッキングを利用したロック機構は、ヘンリーやウィンチェスター・ライフルの原型となったボルカニック・ライフルに利用されて以降、ウィンチェスター・モデル73ライフルの設計まで、ウィンチェスター社の製作したレバーアクションの連発ライフルのボルトのロッキング機構として使い続けられていたからだ。
 ボルヒャルトの勤めるロイヤル・ハンガリアン社は、彼のオートマチック・ピストルの構想に興味を示さなかった。
 そこでボルヒャルトは、彼の構想を実現化できるメーカーを探した。やがて彼のアイデアに興味を示す会社がドイツに見つかった。ルドウィック・ローべ社だ。
 ルドウィック・ローベ(Ludwig Loewe)社は、ローベ(Lowe)兄弟のルドウィック(Ludwig)とイジドール(Isidor)によって設立された会社で、もともと工作機械器具と縫製機械を製造していた。
 1870年に勃発した普仏戦争(フランス・プロシャ戦争:Franco-Prussian War)の特需の際に、プロシャ軍のドライゼ・ツンナール・ゲベアー(ドライゼ・ニードル・ファイアー・ライフル)のリア・サイト(照準機)を製造することから、銃器関連事業にのりだした。
 1886年にルドウィックが他界したが、その後も銃器関連の生産が続けられ、マウザーとの契約で、トルコ向けマゥザー・ボルト・アクション・ライフルの製造をおこなったりした。以降断続的にマゥザー社が開発するボルト・アクション・ライフルの製造を引き受けて、銃器会社としての立場を確立していった。
 ルドウィック・ローベ社は、ボルヒャルトをコンサルタントとして雇い、オートマチック・ピストルの開発をプロジェクトとし、自社のスタッフも投入してすすめることにした。
 そのルドウィック・ローベ社のスタッフの中に、ゲオルグ・リューゲル(Georg Luger 英語名;ジョージ・ルガー)も含まれていた。彼が後年ボルヒャルト・ピストーレの改良をおこなったところから、パラべラム・ピストルのことを、アメリカの販売代理店がルガー・ピストルと呼びはじめ、それが今日、世界中に広まったのだ。

       Borchardt pistol with shoulder stock ボルヒャルト(ボーチャート)ピストル ショルダーストック付き

 1893年、ルドウィック・ローベ社のボルヒャルト・セミ・オートマチック・ピストル・モデルC93が、完成した。同じ時期に、シュワルツローゼ(Schwarzlose)なども、セミ・オートマチック・ピストルの試作品を完成していたが、一般に、このボルヒャルト・セミ・オートマチック・ピストルが、最も初期に量産されたところから、世界最初のセミ・オートマチック・ピストルという栄誉を得ることになった。
 ルドウィック・ローベ社で完成されたボルヒャルト・セミオートマチック・ピストル・モデルC93は、16.5cmバレルを装備させ、専用の7.65mmボルヒャルト・ピストル弾薬を8発マガジンに装填して使用する。このピストルは、量産されたセミ・オートマチック・ピストルの中で、最初にグリップ内部をマガジンとして利用した製品だった。
 多くのボルヒャルト・ピストル・モデルC93は、ショルダー・ストックとセットにされて販売された。
 ボルヒャルト・ピストル・モデルC93は、ピストル単体で使用すると、大きく重くバランスが悪い。しかも、操作性もけっして良くなかった。
 バランスを崩す最大の原因は、このピストル後方に大きくはりだしたメイン・スプリング・ハウジングだった。この中には、トグル・ジョイント・ロッキングを閉鎖させる丸いカーブを描いた板バネが収められていた。そのため、このメイン・スプリング・ハウジングの部分が異様に大きい。
 しかし、ピストルそのものの工作精度や命中精度は良好だった。アメリカ軍にボルヒャルト・ピストルをデモンストレーションしたゲオルグ・ルュゲールは、かなりの速さで連続射撃を行い、しかも高い集弾精度を見せ、アメリカ軍を驚かせたと伝えられる。
 各国の軍隊が興味を示したものの、結局、どの国の軍隊もこの新型ピストルを軍制式ピストルとして採用することにはならなかった。
 ルドウィック・ローベ社で約800挺(一説には1,100挺)ほどのボルヒャルト・ピストルが生産された頃、ルドウィック・ローベは、弾薬メーカーであるドイッチェ・メタルパトローネンファブリク(ドイツ金属弾薬製造会社:Deutsche Metallpatronenfabrik)と合併し、ドイッチェ・バッフェン・ウント・ムニッチオン・ファブリク(ドイツ兵器&弾薬製造会社;Deutsche Waffen und Munition Fabrik 略称DWM)となった。
 以降ボルヒャルト・ピストル・モデルC93の生産は、DWMが継続した。DWMでは、2,100挺(一説では1,900挺)のボルヒャルト・セミ・オートマチック・ピストル・モデルC93が生産された。そのため現存するボルヒャルト・ピストルには、ルドウィック・ローベ社の刻印が打たれたものと、DWMの刻印が打たれたものの2種類が存在している。
 1894年、ゲオルグ・リューゲルは、DWM社の上層部に、バランスの悪かったボルヒャルト・ピストルの改良を提言し、その再設計の承認を得た。
 それまで多くの国の軍隊に対して、ボルヒャルト・ピストル・モデルC93のデモンストレーションをおこない、それに立ち会ったリューゲルは、多くの現場の意見を吸収し、このままではボルヒャァルト・ピストルに未来性がない感じていたのだろう。
 他社の動きを見れば、よりシンプルなシュワルツローゼのセミ・オートマチック・ピストルなども製品化されるようになっており、セミ・オートマチック・ピストルの分野で先行しているDWM社が、他社に追い抜かれる危険もあった。
 ボルヒャァルト・ピストルの改良に着手したゲオルグ・リューゲルを、開発者のヒューゴ・ボルヒャルト(Hugo Borchardt)は、快く思わなかった。ふたりの関係は気まずいものとなり,社内で会っても,お互いに挨拶さえ交わさないほどになったという。
 1895年、マゥザー社のペーター・パゥル・マゥザー(Peter Paul Mauser)が,マゥザー・ミリタリー・ピストル(通称ブルーム・ハンドル・ピストル;Mauser Broom handle Pistol)の試作品を完成させた。
 当時マゥザー社では、ピストルに確定されたモデル名をつけなかった。例えばこの試作品には、単に工場内でのみ通用するC95(コンストラクション1895:1895年製作)の名称が与えられただけだった、そのため、多くの初期のマゥザー・ピストルのモデル名は、後年になって、研究者やコレクターが、区別するために便宜上つけた名前が多い。
 マゥザー・ミリタリー・ピストルは、このカテゴリーの自社製大型ピストル全てに対するマゥザー社の正式な製品名だ。マゥザー社内では、マゥザー・ミリタリー・ピストル・トルコ向けなどと、発注主の名前をつけて識別していた。
 ブルーム・ハンドル・モデルというモデル名は、イギリス人あるいは、アメリカ人が言い出した製品名で、ピストルのグリップが、西洋ホウキの柄に似ているところからつけられた俗称だった。
 マゥザー・ミリタリー・ピストルC95は,ボルヒャルト・ピストルに比べれば、完成度が高く、単純な部品構成によって設計されていた。翌1896年、マゥザー社は、量産型のマゥザー・ミリタリー・ピストルC96を完成させ量産を開始した。
 他社によるセミオートマチック・ピストルの開発も、ゲオルグ・リューゲルにとって大きな刺激となっただろう。とくに協力会社だったマゥザー社が、大型ピストルを開発製品化したことは、大きなインパクトを与えたに違いない。
 ドイツ市場はさておき、海外の軍に、ともにマゥザー・ボルト・アクション・ミリタリー・ライフルを供給することで、両社の評価は高かった。しかも、軍へライフルを納入していたことから、軍内部とのコンタクトが強かった2社は、他のピストル・メーカーに比べ有利な立場にあった。それだけに協力会社である一方、新分野では、強力なライバルでもあったのだ。
 リューゲルは、ボルヒャルト・ピストルのトグル・ジョイント・ロッキング・メカニズムを継承しつつ、大きな改良を加え、試作ボルヒャルト・リューゲル・ピストーレ(ボーチャード・ルガー・ピストル)を完成させた。
 1898年に完成した試作ピストルが、スイス軍の制式ピストルを選定するトライアルに提出され、高い評価を得た。スイス軍から出された追加要求事項を盛り込んで、改良型試作ピストルのモデル1899が設計・製作され、スイス軍に提供された。
 スイスは、1900年にDWMのボルヒャルト・リューゲル・ピストーレ(もっとも、当時、誰もこのピストル名で呼ぶものはいなかった。ピストルは、単にDWMピストルと呼ばれていた。)をスイス軍制式ピストルに選定し、採用する決定を下した。
 DWM社は、スイス軍が採用したものと同型のピストルを製造して一般にも市販した。このピストルは、最初DWMミリタリー・ピストルと呼ばれていたが、後にパラべリューム・ピストーレ(Parabellum Pistole 英:パラベラム・ピストル)と一般に呼ばれるようになった。
 Parabellumとは、ラテン語の"Parare"(備えよ)と"Bellum"(戦争)の合成語で、DWM社の電信略号として用いられていたものだった。しかも、その単語の意味が、軍用ピストルに最適な名前として、DWM社も、この名前を宣伝したため、一般に良く知られることとなった。
 オリジナルのボルヒャルト・ピストーレからの改良で、最大の問題だった後部にはりだしたメイン・スプリング・ハウジングは、グリップ内のマガジン後方のスペースを利用して、ここに板バネを収納しロッキング閉鎖の働きをもたせた。
 そのため、リューゲルの改良したボルヒャルト・リューゲル・ピストーレは、オリジナルのボルヒャルト・ピストーレに比べると、はるかにすっきりとした外観となった。グリップも傾斜した角度がつけられ、射撃しやすい形に変わった。
 1900年にスイス軍の制式となったパラべラム・ピストルは、専用の7.65mm弾薬を使用し、12cmのバレルが装備され、レシーバー左側面後部に、グリップセフティと同調するレバー形式のマニュアル・セフティが装備されていた。
 この手動セフティは、後に数次の改良が加えられ、後に開発されたドイツ軍制式ピストルのP-08ピストルでは逆の操作方向となった。
 マゥザー・ミリタリー・ピストルと同様に、パラべラム・ピストルも最初はっきりとした製品名が与えられていなかった。スイスが軍用としたバラべラム・ピストルを、モデル1900と呼ぶようになったのは、後年のことだ。ドイツでは1930年代になっても、1900年にスイス軍用となったグリップ・セフティ付きでリーフ・スプリングをリコイル・スプリングとして使用するパラべラム・ピストルとその派生型のことを、単にパラベリューム・ピストーレ・アルター・アート(旧部品パラべラム・ピストル)と総称していた。
 スイスが制式ピストルにしたパラべラム・モデル1900ピストルは、レバーを押し下げるとセフティが解除される。レバーを押し上げるとセフティがロックされ、手動セフティ・レバーの下に隠れていた"GESICHERT"(安全装置オン)という文字が現れる。
 グリップ・フレーム後方のバック・ストラップにはグリップ・セフティも装備され、グリップを握っていないときに発射出来ないようになっている。
 しかし、2つのセフティが混在することは、混乱を招きやすく、かえって安全性を危うくするところから、のちに開発されたモデルP-08ピストルなどのパラべラム・ピストルからグリップ・セフティは廃止された。
 12cmバレルを装備させたピストルと別に、30cmの長さのバレルを装備させたパラべラム・ピストル・カービンも作られ一般市販された。パラべラム・ピストル・カービンは、グリップ後面下端に、着脱式のショルダー・ストックを装着することができた。パラべラム・ピストル・カービンは、まだ軽量小型のセミ・オートマチック・カービンが出現していなかった当時、その軽便さで一定の評価を得た。
 パラべラム・ピストル・カービンには、5段階に調節が可能なリア・サイトが装備され、ピストルより正確な長距離射撃を目指していた。
 パラべラム・モデル1900ピストルは、アメリカ軍も興味を示し、トライアルをおこなった結果、わずか1,000挺と少数ながら、アメリカ軍によって試験的に採用された。アメリカ軍向けのパラべラム・ピストルには、アメリカ国章の鷲の紋章がレシーバー先端チャンバー上面に刻印され、アメリカン・イーグル・モデルとコレクターに呼ばれている。
 アメリカ軍は、試験的に採用し使用したものの、7.65mmの小さな口径の弾丸のストッピング・パワーに不満だった。アメリカ軍は、ストッピング・パワーの大きな大口径のセミ・オートマチック・ピストルを求めていた。
 DWM社は、1902年に9mm×9k?1902ピストルと呼ばれるようになった製品だ。
 アメリカ軍などが求めた大口径によるストッピング・パワー要求が、のちに世界中に普及した9mmパラベラム弾を生み出す一つのきっかけとなった。
 9mm口径になったパラべラム・モデル1902ピストルは、再びアメリカ軍によってテストされた。しかし、リボルバーなどに比べるとはるかに複雑な構造の初期のセミ・オートマチック・ピストルだったパラべラム・モデル1902ピストルは、トライアル中にたびたび作動不良を起こし、まだ軍用として完全に信頼出来るものではなかった。
 それでもパラベラム・ピストルは、1908年まで続いたアメリカ軍制式ピストル・トライアルに残ることができた。アメリカ軍のピストル・トライアルに参加した当時のセミ・オートマチック・ピストルの安定性や信頼性は、どれも似たりよったりで、まだ完全な信頼性を得られるものがなかったのである。 
 パラべラム・モデル1902ピストルは、9mm口径のもののほか、7.65mm口径の製品や、30cmのロング・バレルを装備させたピストル・カービン・モデルも作られた。
 1904年、ドイツ海軍は、DWM社製のパラベラム・ピストルを軍制式ピストルとして選定し採用した。ドイツ海軍が選定したパラべラム・ピストルは、口径9mm弾薬を使用する15cmバレルの装備されたものだった。

                Parabellum Pistole 1904 Marine (Luger P04 Navy)

 ドイツ海軍が制式としたパラべラム・ピストルは、制式名をピストーレ1904といい、略称P-04と名付けられた。一般にドイツでは、マリーネ・ピストーレ04と呼ばれている。一方、アメリカなどのコレクターの間では、ルガー・モデル1904ネービー(LUGER Model1904 Navy)の名前で知られている。
 マリーネ・ピストーレ04は、グリップ後面にグリップ・セフティを装備し、リア・サイトが調整可能になっている。マリーネ・ピストーレ04は、約1,500挺が生産されてドイツ海軍に納入された。
 ドイツ陸軍が、同じくパラべラム・ピストルを軍制式としてピストーレ1908の制式名を与えて選定・採用し、軍制式拳銃のセミ・オートマチック・ピストル化を達成したのは、ドイツ海軍に遅れること4年後のことだった。

Parabellum Pistole 1908 Marine (Luger P08 Navy) この状態でセフティはオフ・ポジションだ。上の写真Luger P04はセフティ・オンとなっており、Gesichertの文字が見える。

第一次大戦勃発 Chapter 2 : ドイツの世界政策

 暗殺実行犯ガブリロ・プリンチプはその場で逮捕された。潜入していた7人の暗殺者のうち、6人もその後まもなく逮捕された。
 オーストリアは取調べの結果、彼らがセルビア政府によって武器を与えられ、サラエボに送り込まれたと断定した。フェルデナンド大公暗殺計画は、セルビアのウォイスラフ・タンコシッチ少佐が計画した事になっている。ベオグラードでガブリロ・プリンチプ、ネデリコ・チャブリノビッチ、ミラン・チガノビッチ、トリフコ・グラベッツらに、 6発の爆弾と4挺のブラゥニング・ピストルが手渡された。
 さらに暗殺成功の確率を上げるため、チガノビッチはプリンチプ、チャブリノビッチ、グラベッツを手榴弾の取り扱いを教え、トプシデール射撃場の近くの山林でプリンチプとグラベッツにブラゥニング・ピストルの射撃を教育したとされている。
 しかし、セルビア政府が本当にこの暗殺計画に関わっていたかどうか、現在でも判っていない。
 だがオーストリアにとって、国家としてのセルビアの関与などは重要ではなかった。問題は、オーストリアがセルビアの民族主義運動に降伏することはできないということだ。帝国が威信を失えば、もはや崩壊することは確実だった。ハプスブルグ家の帝国は、崩壊を受け入れることはできない。
 皇太子を暗殺されたオーストリアは、直ちにセルビアに対する懲罰に向かって動きはじめた。それにはドイツの支持を得ることが不可欠だった。
 1871年、鉄血宰相ビスマルクによりドイツは統一された。ドイツ帝国(第二帝政)の誕生だ。
 19世紀初頭においてドイツは世界経済の中で脇役をつとめる農業国でしかなかった。ビスマルクはそんなドイツを統一し、ヨーロッパの一流国としての地位を確保することを目標に掲げ、それを実現させた。19世紀後半には、ドイツはヨーロッパ随一の工業国となっていた。
 しかし1890年、ビスマルクは皇帝ヴィルヘルム2世により解任され、ドイツは国家の中心的存在を失った。そして新たに掲げられたものが、“世界政策(新航路政策)”である。
 国家として発展をするためには、すでに状況が固定化されているヨーロッパではなく、その外にしか発展の余地はない。それは、アフリカ・太平洋・近東だ。勢力を伸ばすには、強力な海軍力を必要とする。ヴィルヘルム2世の“世界政策”はこのような帝国主義政策であった。
 ドイツの資本主義は重化学工業を中心に発展し、工業生産高では1910年にはイギリスを追い抜いて、アメリカに次ぐ世界第二の工業国となっていった。
 そして1900年から1917年までに、戦艦38隻・巡洋艦42隻の大艦隊を建造する第二艦隊法が施行された
 しかしこの“世界政策”は、ドイツの国家としての焦燥感から生まれたものだった。
 ビスマルク亡き後のドイツには、国家を構成する国民の強い意識は消えていた。ドイツはオーストリア・ハンガリー、イタリアとの間に三国同盟を作った。しかし、それに対抗する三国協商が、イギリス、フランス、ロシアの間で結ばれた。
 イタリアなどは殆どあてにならない。オーストリア、ハンガリーの二重帝国もまた衰退の一途をたどっている。このままでは、ドイツは世界の1流国の枠組みから滑り落ちてしまう。そこを懸念したヴィルヘルム2世は“世界政策”を掲げ、国民の意識をまとめようとした。
 現状を打開する圧倒的な手段、それは戦争だった。戦争は国民の意識をまとめるし、戦いに勝つことで、ヨーロッパにおける中心国家として君臨することが出来る。そんな時、サラエボで事件が発生した。
 「今をのがせばチャンスはない!」、これはヴィルヘルム2世の言葉だ。しかし戦争は彼の思惑とは違う方向に拡大していった。

Nov.27, 2003 Satoshi Maoka

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