ブラゥニング(ブローニング)モデル1910ピストル  Browning M1910

  第一次世界大戦勃発  Chapter 1. 皇太子暗殺

ブラゥニング モデルM1910ピストル Browning M1910

 1914年6月28日、日曜日、よく晴れたサラエボの町に2発の銃声がとどろいた。オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公とその妻ゾフィーがセルビアの青年に暗殺されたのだ。この事件をきっかけに、人類はその歴史上経験したことがない、大規模な世界戦争に向かって走り始めた。
 暗殺実行犯ガブリオ・プリンチプの手に握られていたのがブラゥニング モデルM1910ピストルだ。
 ジョン・モーゼス・ブラゥニングがFN(Fabrique Nationale)社と契約を結び、FNが製造した口径.32ACPのモデルM1900ピストルは市場で大成功を収めた。
 19世紀末、セミオートマチックピストルは既に製品として登場していたが、それらはいずれも大型ピストルだった。ボーチャード、マウザー(Mauser)、シュワルツローゼ(Schwarzlose)、マンリッカー(Mannlicher)などがそれに当たる。ヨーロッパの民間市場で求められていたものは、もっと小型のピストルだった。
 FN モデルM1899ピストルは、ベルギー軍用のマウザー モデルM1888ライフルを製造していたFN社が最初に発売したセミオートピストルだ。これを改良したものがモデルM1900ピストルである。
 リコイルスプリングがバレルより上に位置し、撃発機構はストライカー形式、ロッキングシステムのないブローバック方式のこのピストルはベルギー軍に採用された。また民間市場にも売れまくり、1900年から1910年の製造中止までの11年間に724,450挺が製造された。
 モデルM1900ピストルはまだ試行錯誤的な設計で、それがピストルの外観を野暮ったいものにしていた。その後、ブラゥニングはFNモデルM1903ピストルやモデルM1906ピストルを設計し、そのデザインはスッキリしたものになっていった。そして1908年、ブラゥニングはFN社の要請で、M1900の後継モデルを設計した。
 それがFNモデルM1910ピストルだ。リコイルスプリングは銃身の回りに設置され、スライド部は大幅にスリム化された。全体は滑らかなラインで構成され、デザイン的にも素晴らしく洗練されたものになった。メカニズム的にも極めてシンプルで無駄なものがない。そのため、世界中のマーケットで成功を収めた。

 FN モデルM1910ピストルは32ACPでマガジンキャパシティ7発のモデルと、380ACPで6発のモデルの2種類が供給され、ヨーロッパの警察でも採用された。小型で隠し持ちやすく、またスナッグプルーフなデザインの為、銃を抜く際に服などに引っかかることもない。そのため、刑事用として最適のピストルだった。
 セフティも当時としては最高の機能性を持っていた。ストライカー撃発方式で、ストライカーを保持するシアをグリップ・セフティがロックする。グリップを握っていないときはシアが下降出来ない為、これは一種のオートマチックセフティとして機能している。マニュアル・セフティは、そのグリップ・セフティを固定するものだ。チャンバーに弾を装填したまま、銃を落としても、グリップ・セフティが機能していれば、暴発することは殆ど考えられない。暴発するとしたら、ストライカーとシアの一部が破損した場合だ。
 もっとも当時はチャンバーに弾を装填して携帯することは殆どなく、射撃をする前にスライドを手で引いてチャンバーに装填する使い方が常識だった。
 またマガジン・セフティも装備され、マガジンを抜いておけば、トリガーを引くことは出来ない。

 グリップは小さい。手が大きい射手の場合、指がグリップからはみ出してしまう。しかし、この銃の用途は護身用であり、小さく短いグリップは携帯性を高める上において重要だ。ストライカー方式であるため、グリップフレーム内にコイルスプリングはなく、限界に近いところまでグリップを小さく出来る。
 構えてみれば、実に自然にエイミングが出来る。感覚的には対象物を指差ししている状態に近い。グリップの形状により、グリップ・セフティは多少握り込みにくいが特に問題はない。
 写真をご覧頂く限り、前後のサイトが無いように見えるだろう。しかし、スライドの上面にフルート(溝)があり、その中に物凄く小さなサイトがある。フロントサイトは針の先のように小さく、リアサイトもそれに対応したものだ。
 正確なエイミングは困難だし、連射時には、完全にフロントサイトを見失ってしまうだろう。しかし、この銃の用途を考えればあまり問題ではない。標的を指差していく感覚で撃っていけばよい。
 徹底的にスナッグ・プルーフを目指した銃の形がこれだ。服の下から抜き出す時、引っかかる要素はほとんどない。銃は薄く小さく、それでいてある程度のパワーもある。
 緊急時に第一弾をチャンバーに送り込むには、がむしゃらにスライドをつかんで引っ張ることになる。リアサイトもグルーブの中に収めてある為、思いっきりスライドをつかんでも手を痛めることはない。
 ガブリオ・プリンチプは、あらかじめチャンバーに1発送り込んでいたのか、あるいは皇太子の車に駆け寄りながらスライドを引いたのか、それは判らない。しかしモデルM1910ピストルを引き抜いた瞬間、彼は自らの未来を断ち切った。
 フランツ・フェルディナント大公の暗殺に使われたものはモデルM1900ピストルと世界中で信じられていたが、これは間違いだ。実際に使われたのは当時最新鋭であったブラゥニングモデルM1910ピストルだ。
 人類史上初めて、世界中を巻き込んだ戦乱である第一次大戦の引き金となった銃という汚名が、ブラゥニング・ピストルに与えられている。しかし戦争を引き起こしたのは銃でも銃弾でもない。その悲劇は人間が引き起こしたものだ。
 モデルM1910ピストルは、ロングセラーとなり、バレル、スライド、フレームを延長したモデルM1922ピストルや、ブラゥニング380の名称となったタイプ1955ピストル、さらにバレル、スライドを延長し、アジャスタブルサイトを載せたブラゥニングモデル380 (タイプ1971)ピストルなどのバリエーションがある。1975年に製造中止となるまでトータル100万挺以上が製造された。

第一次大戦勃発 Chapter 1. 皇太子暗殺

ピンク色の国は同盟国側、緑色の国は連合国側、黄色は中立国を表す。
連合国はその他、アメリカ合衆国、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、南アフリカ連邦、日本、中華民国、ブラジル、キューバ、パナマ、リベリア、ニカラグア、コスタリカ、ハイチ、ホンジュラス、シャム

 1389年、コソボの戦いでオスマン帝国(トルコ)に敗れたセルビアは、約500年にわたってオスマン帝国の支配下にあった。
 18世紀、南進政策をすすめるロシアは、バルカン半島をめぐってオスマン帝国と利権争いを繰り返していた。しかし1877年、オスマン帝国はロシアとの戦争に敗れる。
 ヨーロッパ各国の思惑が交錯し、セルビアの独立が確認されたのは、ドイツ宰相ビスマルクの策略によって開かれた1878年のベルリン会議によってであった。
 当初、セルビアはオーストリア・ハンガリー帝国と友好関係を構築したが、1903年、暴動によりセルビアのオブレノビッチ王朝が倒れ、代わって汎スラブ主義のカラジョルジビッチ王朝が出来た。この時からセルビアは親ロシア路線に傾いていく。
 1908年、オーストリア・ハンガリー帝国はボスニア・ヘルツェゴビナを併合した。セルビアはこれに反発、オーストリア・ハンガリー帝国との関係は更に悪化した。
 オーストリアは10世紀神聖ローマ帝国の東部辺境地域に誕生した。ドイツ系ハブスブルク王家がオーストリアを治め、ボヘミア、ハンガリー、ポーランド、ルーマニア等の地域を統治した。これらの地域は多数の民族、特にスラブ系民族が多く住んでいた。
 ハブスブルク王家は超民族的な存在であり、それら諸地方の経済資源を補い、軍事的防衛を一体化させていた。
 しかし民族意識の萌芽は、この国家体制に亀裂を引き起こす。1848年3月革命は ウィーン体制の象徴的人物メッテルニッヒを失脚させた。 その後、民族運動は激化の一途をたどる。
 マジャール人は1867年、ハンガリー帝国を建国した。マジャール人はルーマニア人、南スラブ人(ブルガリア人、セルビア人、クロアチア人、モンテネグロ人、スロヴェニア人、マケドニア人)、スロバギア人に対し、抑圧的態度で臨んだため、ハンガリー政府とそれらの民族の間には紛争が絶え間なく続くことになる。
 20世紀になると、オーストリア・ハンガリー帝国に対し国外から、抑圧されている民族を開放するようにとの要求が強まった。ロシアの汎スラブ主義を背景にしたセルビアは、この急先鋒だ。
 ボスニア・ヘルチェゴビナにはセルビア人が多く居住していた。オーストリア・ハンガリー帝国が1908年にボスニア・ヘルチェゴビナを突然併合したのは、この民族解放運動を押さえ込むことが目的だった。
 この事はセルビアに大きな衝撃を与え、逆に反オーストリア運動は激化していく。
 オーストリアの皇太子フェルデナント大公は、ハンガリーの民族政策に異を唱えていた。ハンガリーの民族対立は、オーストリア・ハンガリー帝国全体の基盤を揺るがしかねない。
 フェルデナント大公は、ハンガリーの権力を制限し、南スラブ人の自治権を拡大することで、帝国の安定を図ろうとしていた。
 彼のボスニア訪問は、この考えに基づくもので、ハクスブルグ家の皇太子が、南スラブ人の自治権を拡大すべく活動している姿を示したかった。しかし、ボスニアにおける民族意識の高まりは、皇太子のそのような思惑とは全く違う方向に動いた。
 奇しくも6月24日は聖ヴィトゥスの日(Anniversaire de la bataille de Kossovo、独立していたセルビア王国が1389年、オスマン帝国に敗北した日)だ。この日にオーストリア皇太子がボスニアを訪れることは、セルビア人にとって侮辱以外の何物でもない。
 フェルデナント大公が、選りによってこの日にサラエボを訪問したのは、この日が彼の結婚記念日だったからだと言われている。フェルデナント大公の結婚は、貴賎婚だった。ボヘミアの伯爵の娘でしかなかったゾフィーは、皇族の一員たる資格を持たず、ふたりの間に生まれた子供は、ハプスブルグ家の皇位継承権を放棄することを約束させられていた。ゾフィーは大公妃であるにもかかわらず、公式の行事に参加することも出来なかった。
 しかし、フェルデナント大公は二重帝国の監察長官であり、陸軍大演習の監察のためなら、大公妃を同伴することが出来た。14回目の結婚記念日に妻を喜ばせる目的で、サラエボの地を訪問したのだ。
 セルビアの過激な民族主義秘密結社“黒い手(Crna Ruka)”は、皇太子暗殺のために7人の暗殺者を送り込んだといわれている。
 駅に到着し、自動車の隊列を組んで市庁舎に向かう皇太子一行に、暗殺者のひとりは爆弾を投げつけた。しかし、爆破されたのは、皇太子と大公妃の乗った車ではなく、別の車だった。
 市庁舎でのセレモニーを終えたフェルデナント大公の、次の訪問予定地は博物館だった。しかし、フェルデナント大公は、その前に先ほどの爆弾事件による犠牲者を病院に見舞いに行くと強く主張した。
 大公の主張に従って予定は変更され、博物館を訪問する前に病院に行くことになった。しかし自動車隊列先頭車両の運転手は、何故かこの予定の変更を知らされていなかった。
 病院にいくのには、駅に向かって真っ直ぐ戻る形になる。当初予定されていた博物館に行く場合は、その途中で右折する。暗殺者の一人、19歳のガブリオ・プリンチプ(Gavrillo Princip)は、その曲がった道アッペル・ケー(Appel Quay)にいた。隊列はここで右折せず、まっすぐに病院に向かっていたら、皇太子暗殺は未遂に終わっていたかもしれない。
 しかし予定変更を聞かされていなかった先頭車両の運転手は、ここでアッペル・ケーを右折してしまった。その先頭車両に付いて行くように指示されていた“皇太子夫妻”の乗る車両の運転手も、その道を右折した。しかしすぐに間違いに気付き、逆進しようと停車した。
 運命のいたずらか、そこは暗殺者プリンチプの目の前だった。彼はブラゥニングM1910を抜いて、皇太子夫妻の乗る車に駆け寄ると、ステップに飛び乗り、フェルデナント大公と大公妃に向かって1発づつ発砲した。2発の凶弾はふたりの生命を一瞬にして奪った(もっと多数発射したという説もある。また複数の暗殺者が発砲したという説もある)。
 オーストリア皇太子フェルデナント大公と大公妃ゾフィーが暗殺された事件は、欧州を駆け巡った。オーストリア・ハンガリー二重帝国とセルビアの確執は根深く、この暗殺事件がどのような方向に向かうかは、誰の目にも明らかだった。
 しかし、それがまさか世界大戦にまで発展するとは、誰も予想出来なかっただろう。


 写真は暗殺当日フェルデナント大公と大公妃ゾフィーの乗った車と、フェルデナント大公が撃たれたときに身に着けていた服

Satoshi Maoka
Oct.1, 2003

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