On The Range   −軽井沢国際射撃場 最後の日−

In the last of this shooting place
We grope together
And avoid speech
Gathered on this range of a gentle breeze・・・

This is the last day of this shooting range
Not with a bang but a whimper

T.S. Eliot の “The Hollow Men”の一節をもとにした替え詩

 軽井沢にクレー射撃場が出来たのは昭和37年(1962年)のことだ。翌年には100m大口径・スラッグ射撃場、50m小口径(22LR)射撃場、10mエアライフル射撃場が加わり、総合射撃場が完成した。そして昭和39年に公認射撃場となった。しかし、軽井沢の射撃場は、第二次世界大戦前、すでに別の場所に存在していた。
 軽井沢は日本を代表するリゾート地であり、そのポジションは別格だ。一見すればゴルフ場やテニスコート、温泉、フレンチ・レストラン、ショッピングプラザ、美術館、人口スキー場などといったものが点在しているだけで、他のリゾート地と何も変わらないと思うかもしれない。
 しかし軽井沢が他の地域と違うのは、リゾート地として形成される過程に独特の文化の香りが漂うことにある。それは、100年以上前に外国人によって、もたらされたものだ。

避暑地軽井沢
 避暑地としての軽井沢を形作るきっかけは、明治18年(1885年)(明治19年という説もある)、宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーとその友人ディクソンが軽井沢を訪れたことに始まる。この地がヨーロッパ的な風景を持つことを知った両氏はその年の夏、共に家族を伴って再訪した。

左:A.C.ショー記念礼拝堂 A.C.ショーが軽井沢で最初に住居として使っていたものが、後に礼拝堂として利用された。
右:三笠通り  落葉松並木が旧軽井沢ロータリーから旧三笠ホテルまで続く。

高林薫平の居宅を借り2ヶ月間滞在したA.C.ショー氏は、軽井沢の風土が避暑地として最適であることに着目した。そして、日本在住の欧米人に軽井沢を紹介すると共に、明治21年に自らこの場所に別荘を建てるに至った。やがて軽井沢には数多くの在日外国人が避暑に訪れるようになる。
 明治17年(1884年)、新しい国道が開通し、旅人に強いていた険しい碓氷峠越えは不要なものとなった。多くの旅人が訪れた軽井沢宿場町(現在の旧軽井沢銀座エリア)は、新国道から遠く離れてしまったため、人通りもまばらになり、急速に寂れていった。そんな中、外国人が現れ、寒村に新たな息を吹き込む。地元の人々も外国人を受け入れ、彼らの生活習慣を吸収していった。

 明治45年(1912年)には、軽井沢に193軒の別荘があったが、そのうち日本人の別荘は30軒に過ぎない。夏の間、1000人近い欧米人が、あまり広くない地域(現在の旧軽井沢エリア)に集まっていたことになる。それが独特の文化圏を形成するきっかけになった。宣教師を中心とした外国人がもたらした文化は、質素な生活の中でスポーツと自然を愛し、ボランティア精神にあふれるといった当時の西洋的道徳観に基づくものだった。
 緑豊かな軽井沢の町に、西洋の文化は不思議と調和していった。A.C.ショーが訪れた時から遡ること約100年の天明3年(1783年)、 浅間山は大噴火を起こしている。このとき噴き出した火砕流や火山灰で、この地域の植物の多くは枯れてしまった。明治16年(1883年)、この地で開墾事業を起こした雨宮敬次郎は、耕地に適さない土地に落葉松を植えた。酸性の土地に強いのは、落葉松、赤松、そして白樺だ。雨宮は1年に30万本から40万本を植樹し、最終的にその数は700万本にも及んだ。現在の緑豊かな軽井沢の風景はこの植樹事業に起因するところが大きい。いわば人の手が加わった自然の風景といえる。

左:昭和10年(1935年)ワード神父によって建てられた聖パウロカトリック教会。設計はアントニン・レイモンド
右:軽井沢プリンスホテルゴルフコースの終わりかけた紅葉

 大正2年(1913年)、避暑外国人達は“軽井沢避暑団(Karuizawa Summer Residents Association)”を結成、3年後には財団法人に発展した。この団体は、会員資格として、high moral character(品行方正)を掲げ、軽井沢を美しく、かつ清らかな避暑地として維持、発展させるための自治行政を行った。
 大正時代になると、野沢源次郎により保養別荘地としての開発事業が始まった。電灯がつき、マーケットが開かれ、道路沿いにモミやカエデが植えられた。御水端より湧き出る清水をせきとめて雲場池が作られた。また外国人によってテニスが盛んであったこの地に、18ホールのゴルフ場が作られたのも、この時期だった。
 さらにそれを追うように堤康次郎が千ケ滝周辺を別荘地として開発、その後、南軽井沢、さらに北軽井沢へその手を広げていった。
 圧倒的に外国人の別荘が多かった軽井沢だが、大正時代になると急速に日本人の別荘が増えていった。宣教師を中心とした外国人家族による節度のある暮らしぶりが明治時代の軽井沢の特徴でもあったが、日本人セレブリティが増えるに従い、徐々に俗化していくことは避けられるものではない。
 そんな中、大正5年(1916年)、軽井沢で英語講習会が開かれたことをキッカケに、毎年、軽井沢夏季大学が開催されることになった。これは軽井沢の文化事業の一環であり、戦争で中断もあったが、現在も夏の軽井沢で実施されている。俗化が進んだ一方で、明治時代から続く良質の文化的意識は継承され続けた。

    左:深い霧に沈む晩秋の雲場池  右:数多くの文人達が利用したつるや旅館

 数多くの文化人もこの地に魅せられ、繰り返し訪れている。室生犀星、島崎藤村、芥川龍之介、堀辰雄などは、つるや旅館に宿泊し、文筆活動を行った。
 現在の天皇皇后両陛下は、軽井沢会主催の国際テニストーナメントで出会われたことがご成婚のきっかけであったことは有名だ。軽井沢に御用邸はないが、天皇家にとって軽井沢とのゆかりは深い。
 故ジョン・レノンも家族と共に訪れた軽井沢を愛し、将来は軽井沢に住みたいという希望を持っていたと言われている。

射撃場の誕生
 夏の軽井沢は、さわやかな気候で、スポーツを楽しむには最適な土地だ。明治時代の避暑外国人達は、当初からスポーツを奨励していた。彼らはテニスを愛好したが、日本人セレブリティが増えた後は、ゴルフもこの地で盛んに行われるようになった。そして、そこにクレー射撃も加わる。軽井沢の射撃場は、離山のふもと、雲場池からさほど遠くない地にあった。第二次世界大戦前のことだ。トラップレンジの他にライフルレンジもあった。
 昭和20年(1945年)9月15日、進駐軍が軽井沢の地に足を踏み入れた。11月9日、三笠ホテル、万平ホテル、千ケ滝グリーンホテル、新旧ゴルフ場などがアメリカ軍に接収された。軽井沢射撃場もこのとき、同時に接収されたらしい。
 軽井沢には多くの駐留アメリカ軍兵士が保養に訪れ、この地で過ごす時間は、彼らの心を大いに和ませた。
 昭和26年(1951年)、日米講和条約が締結されると、その翌年にかけて接収されていた施設は日本人の手に戻された。
 その後、軽井沢に数々のゴルフ場がオープンしはじめた。この地は再びセレブリティの保養地として息を吹き返したのである。南軽井沢にはスキート射場が一時存在した。現在の軽井沢プリンスホテル スキー場のあたりだ。

                 昭和41年(1966年)夏の旧軽井沢射撃場 SB射場

旧軽井沢射撃場エアライフル射場(昭和41年)。左は上の写真を拡大したもの。当時、専用の射撃コートを持っているシューターはほとんどいなかった。そこで一見すると似ている革ジャンパーをみんな着込んで撃っていたらしい。後ろにいるサングラスの青年?が裸であることから、これは真夏であることが判る。暑さ対策で、ほぼ全員が白っぽいテンガロンハットのようなものを被っていることからも、これが暑い日であったことがうかがえる。
 軽井沢は避暑地であるが、真夏の日中はかなり気温があがる。革ジャンパーでの射撃は、かなり暑かっただろう。
 使用している銃はポンプ式エアライフルで、狩猟用に近いものだ。当時はこのような銃が大半であった。

 昭和31年(1956年)、千ケ滝に屋内スケートリング、昭和36年(1961年)、野外人口スキー場が出来た。昭和39年(1964年)にはオリンピック東京大会の馬術競技が、軽井沢で行われている。
 新しい軽井沢国際射撃場がオープンしたのは、そんな時代だ。戦後日本の国際的リゾートとして、軽井沢の地が大きく飛躍した時、どのようなきっかけでこの射撃場が出来たのか、そのときの事情はよく判らない。
 軽井沢のゴルフ場やスキー場、スケートリンクの建設は、主として国土開発などの資本による営利事業であったが、射撃場を作ったのは、軽井沢町だ。以後、軽井沢国際射撃場は、軽井沢町開発公社により運営されてきた。
 一方、旧軽井沢にあった射撃場はその後、ある時期に消えてしまった。
 昭和30年代から40年代は、映画やTV、演劇の人気俳優たちが盛んに射撃を楽しんだ時期だった。三船敏郎、萬屋錦之介、森繁久弥、三橋達也らは芸能人射撃クラブを結成し、一般のシューターと共に試合を行った。当時の人気俳優は“スター”と呼ばれる憧れの存在だった。彼らは新しい軽井沢国際射撃場を利用することも多く、軽井沢町にとっても、そんなスター達が集まる射撃場は、軽井沢のイメージを高める存在として相応しいものであったといえる。
 その時代、高島屋や三越といった老舗デパートには銃砲コーナーがあった。それも宝飾品や高級腕時計売り場に併設されていた。当時の射撃は高級(高額)なスポーツであり、ある種のステータスにあふれた遊びであった。
 軽井沢は100年に及ぶ歴史を持った良質のリゾート地であり、独特の文化の香りを維持している。しかしそこには、軽井沢という町を、あるがままの状態で自由に発展させるのではなく、文化的かつ、良質のリゾート地であることを維持しようとする強い意志とコントロール力があったからこそ、今の姿があるのだ。
 但し、人為的な力でそれを維持しようと務めると、それは違ったベクトルを持つ可能性がある。結局、軽井沢は その地に別荘を持つセレブリティの意向に逆らう事は出来ない。
 軽井沢に別荘を持つ当時の人々が愛好したスポーツはゴルフであり、乗馬であり、クレー射撃であった。だから軽井沢に射撃場が存在した。

時代の変化
 軽井沢の町は時代と共に変化を遂げている。この地に多くの若者が訪れるようになったのは1970年代の事だ。旧軽井沢には、以前から避暑客を対象として、銀座や青山の高級店が、夏期のみ出張店を出して営業していた。避暑に来た人達が夏の2ヶ月を不自由なく過ごすために、彼らの馴染みの店が付いて来たというわけだ。だが1970年代から若者向けの出張店が増えてきた。それに伴って旧軽井沢銀座の様子は徐々に変わり始めた。
 しかし軽井沢町は、パチンコ店や風俗産業、カラオケ店といった業種が進出することを拒み、軽井沢の町が止め処なく俗化することを防止した。この事は現在も変わってはいない。

 

上左:軽井沢プリンスショッピングプラザ ニューウエスト
上右:1978年に開店した
カフェ ミハエル
左:治安の礎  昭和47年(1972年)、武装した連合赤軍が人質をとって“あさま山荘”に篭城、人質救出に当たった警察官2名が殉職、一般市民1名が死亡、22人が負傷した。
 殉職した警察官の慰霊と治安を守る警察官の意思を示すモニュメントとして南軽井沢に治安の礎がある

銃刀法が強化され、射撃愛好者は徐々に減少していったがそれでも軽井沢射撃場は、この地に別荘を持つ射撃愛好家のために春から秋まで営業を続けた。
 ある時期、社団法人軽井沢町開発公社の事業として利益が上がっていたのは、この国際射撃場と旧軽井沢ロータリーの直営駐車場だけであったと言われている。その他の事業(テニスコートやプール、室内運動場、等)は全部赤字だった。
 しかし、軽井沢国際射撃場のライフルレンジは2001年閉鎖になってしまった。ライフルの発射音に、周辺の別荘から苦情が相次いだことが直接のきっかけだ。大口径ライフルの発射音はショットガンのそれとは比較にならない。
 ライフル射撃場が出来たのは昭和38年(1963年)だ。当時、近所に別荘などほとんど無かった。しかし、近年、野村不動産が、射撃場の近くに別荘地を分譲した。ここはグレードの高い別荘地だが、別荘を買った人々は朝から夕方まで射撃場の発射音に悩まされた。また大口径射撃場の裏側には、川と浅間山を望む斜面に別荘が多くある。
 しかし、そこに別荘を建てた人は、射撃場があることを知っていながら建てたはずだ。後からやってきて、射撃場がうるさいという主張は常識では通らない。射撃場が休みの冬季に別荘を買ったとしても、分譲主は買主に対して、売買物件の重要事項説明書を交付する義務が宅建業法で課せられている。だから別荘を建てた人は射撃場の存在を知っていた。
 近くにある軽井沢タリアセン(塩沢湖)でも風向きによっては銃声が聞こえた。塩沢湖を取り囲む公園に、ペイネ美術館が併設されている。昭和8年(1933年)に建築家アントニン・レイモンドが軽井沢に作った日本の伝統的木造民家の別荘が、この地に移され美術館として使われている。愛と平和をモチーフにポエジーあふれる絵を描き続けてきた画家レイモン・ペイネの作品を見ながら、遠くの銃声を聞くことはあまり相応しい事ではない。
 ここには明治四十四年館と呼ばれる洋館(旧軽井沢郵便局の建物)もあり、深沢紅子 野の花美術館や“十四行詩(ソネット)”という立原道造の作品にちなんだ名前のレストランになっている。
 いずれにしてもライフル射撃場は大口径、小口径、エアライフルのすべてがこの時、閉鎖されてしまった。もし、射撃がこの地に別荘を持つ人々の多くに楽しまれているものであったなら、決して閉鎖にはならなかっただろう。たとえ銃声に悩まされている人がいたとしてもだ。しかし時代の変化は、別荘に来て射撃を楽しむ愛好者をわずかなものにしてしまっていた。

1990年代後半の財団法人 軽井沢町開発公社発行のパンフレットにある軽井沢国際射撃場の案内
ライフル50m26射座がSB用で自然式50m1面が、大口径ライフル、およびスラッグ射撃用レンジであった。

 

またライフルレンジを閉鎖した理由は、スピード・スケートリンクを作るためでもあった。軽井沢でスケートを行った歴史は明治40年(1907年)に遡る。冬の寒さが厳しいこの土地はいたるところで氷が張った。1915年(大正4年)には、軽井沢氷滑会が開催、翌年には第一回軽井沢スケート大会が開催された。
 冬のスポーツとして、スケートが盛んになり、昭和30年(1955年)には軽井沢スケートセンターが作られた。ここは更にフィギアスケートやスピードスケート競技が出来る会場に発展していく。昭和38年(1963年)世界スピード選手権、昭和63年(1988年)世界スプリントスピードスケート選手権といった国際大会が開催され、軽井沢町はスピードスケートを町のスポーツとして奨励していった。その結果、軽井沢町の高校生スピードスケート選手は全国でもトップレベルとなった。
 しかし近年その座を他の地域に奪われてしまった。これは軽井沢スケートセンターが平成9年、野外スピードスケートリンクを廃止したことの影響も少なくないだろう。軽井沢町民は、スピードスケートの復権を目指し、軽井沢町内に自前のスピードスケートリンクを持つことを悲願としていた。
 軽井沢町は新たなスピードスケートリンク建設場所として、この大口径射撃場に目を付けた。周辺別荘の住民から銃声がウルサイと苦情が寄せられ、有害施設となっていた大口径射撃場を無くしても、反対する住民はほとんどいない。こうして大口径射撃場、スモールボア射撃場、エアライフル射撃場は無くなってしまい、スピードスケートリンクが建設された。
 この大口径射撃場は自然式とよばれ、屋根もなく、山の斜面の前に、50mの広場があるだけのシンプルなものだった。標的の背後には土を盛ってあり、そこに向かって撃つだけのこの大口径レンジ使用料金は比較的高額だった。それでも、おおらかな自然そのものの射撃場として、好んで使用していたシューターは少なくなかった。この大口径射撃場が、軽井沢国際射撃場の収益を稼ぎ出していた。また以前は軽井沢警察署が、ピストル射撃練習場として、ここの小口径射撃場をごく稀に利用していた。

装弾販売中止
 ライフル、スラッグ射撃場がなくなり、トラップ2面、スキート1面だけになった軽井沢国際射撃場は赤字に転落してしまった。射撃場が赤字となったのはライフルレンジが閉鎖された以外にも、別の理由があるようだ。
 平成12年(2000年)秋まで軽井沢国際射撃場は、他の多くの射撃場同様、受付で装弾が購入できた。土日や祝日、また夏季のシーズンは火薬店が常駐して販売を行っていた。事前に頼んでおけば、メーカーを指定しての取り寄せも可能であった。
 射場で装弾が購入出来るかどうかは、熱心なクレーシューターにとってはどうでも良いことかもしれない。しかしここは軽井沢という場所である。
 連休や夏休みには多くのシューターで賑わっていた軽井沢国際射撃場だが、そういう繁忙時には地元のシューターより別荘から来るシューターが多くなる。別荘シューターも当然自動車でやって来るが、装弾は射撃場で購入するケースが多かった。
 東京から家族や友人と自動車で来る場合、同じ荷物でも銃だけは特別な扱いをする必要がある。これに加えて仮に500発として、20kg近い荷物を車に積み込む事を考えると、手軽に射場で買うことが合理的であるのは明白だ。
 また、新幹線利用の場合は自分の旅行用品と銃に加えて、装弾を運ぶことは無謀に近い。
 そのような背景から、ここ軽井沢国際射撃場は火薬店が受付奥に火薬庫を備え、いつでも装弾が購入出来ることに大きな意味があった。同時に商売が成立するほど、射撃場で装弾が売れていたという事であった。
 火薬店は小諸市の北東の山の上に店を構えており、そこから軽井沢国際射撃場に通っていた。射撃場に来ていたのは、年の頃は80歳近い御老人で、毎日使い込んだパジェロに乗って現れた。彼がどのような経緯で射撃場に自分の火薬庫を置いて商売できるようになったのかは不明であるが、火薬庫の古さから見ても年月が感じられた。
 平成12年の秋口の頃、射撃場の職員と火薬店の御老人の関係が、些細な事から悪化してしまい、その結果、火薬店の御老人は長年通った職場を失ってしまった。平成13年(2001年)4月の開場から、彼と彼の古い火薬庫は軽井沢国際射撃場からその姿を消した。
 そして、その影響は別荘シューターに降りかかった。
 ある別荘シューターは、いつもと変わらぬ5月の連休に、銃を携えて軽井沢国際射撃場に現れた。
 彼は装弾販売が取り止められた事など知るよしもない。しかたがないので火薬店まで装弾を買いに行くことを考えてみたものの、連休中の軽井沢の事である。小諸か佐久まで往復すれば、運が悪ければ数時間を車の中で過ごす結果となってしまう。腹を立てても解決にならないことを悟り、彼は予定を変更し、バーベキューをするべくツルヤ・ショッピングプラザに向かうこととした。
 連休が終わり初夏が過ぎて、心待ちにしていた夏休みに、軽井沢の別荘に向かう彼の荷物には、銃の代わりにゴルフバッグが納められる事となった。
 こんなシューターが多くなり、射撃場の客は減ってしまった為、軽井沢交際射撃場は赤字に転落した。
 近くに別荘を買った住民からは相変わらず、銃声に関する苦情が続いた。軽井沢射撃場の営業時間は午後6時までだったが、午後5時を過ぎると銃声に関する苦情が一段と多くなる。その結果、営業時間終了を1時間繰り上げて対応せざるを得なかった。
 そしてついに平成15年(2003年)3月、軽井沢射撃場は同年11月14日をもって閉鎖することが決定、6月の町議会で、軽井沢射撃場の運営を定めた町条例が廃止となった。
 軽井沢に集まるセレブリティが好んで使用した射撃場は、彼らを喜ばせると同時に、町のイメージを高めるという大きな使命を果たしていた。しかし、時代が変わり、射撃がごく限られた愛好者だけのスポーツとなってしまったとき、その役目を終えたといえる。特に収支が悪化した後は、単なる町のお荷物となってしまった。
 しかし、本当に軽井沢射撃場は不要なのだろうか。たとえ愛好者がごく一部の限られた人達であっても、そういったマイノリティの楽しみも尊重していくことこそ文化的な姿ではないだろうか。
 射撃は狩猟という人間のプリミティブな活動を元にした由緒正しいスポーツだ。軽井沢の町では戦前から射撃競技が行われていた。このことは、国際的リゾート地としての軽井沢を形作る上で、重要なことであったと思う。そんな歴史を無視し、単に今現在の状況だけを見て簡単に切り捨ててしまう。これが正しい姿だとは私には思えない。歴史とは、人々の生きてきた時間の積み重ねであり、ひとたび断ち切ってしまったら、もう戻ることはない。

閉場の日
 11月14日、金曜日、軽井沢射撃場閉場の日だ。その週ずっと降り続いていた雨が上がり、さわやかな秋晴れとなった。私(Tanokura)は、思い出がいっぱい詰まった軽井沢射撃場に向かった。最後の日を見届ける為に。
 かつてこの射撃場を愛した人達の多くは、私と同じような気持ちでこの日を迎え、愛する銃を手に集まってくるに違いない。
 ところが、軽井沢射撃場はいつもの金曜日と同じだった。お客は平日としては少し多いと思われる程度で、予想していた送別の賑わいとは程遠いものだった。私は拍子抜けしながらも、銃を手に射台に立った。
 紅葉が終わりかけた晩秋の軽井沢、晴れ渡った青空のもと、私は思い切り射撃を楽しんだ。この射撃場が今日で閉まる。そう思うと本当に寂しい。
 午後5時が近づくとほとんどのシューターは帰ってしまった。スキートレンジからは、ギリギリまで粘るシューターの銃声が日の落ちかけた射場に響いていた。トラップレンジに残ったのは、私一人だった。まさか私が、軽井沢国際射撃場トラップ射台からクレーを放出する最後のシューターになるとは思っていなかった。
 最後のクレーは失中し、音もなくススキの中に消えていった。
 クラブハウスに戻ると30歳代くらいの男女のシューターが射場長と談笑していた。だいぶ以前から覚悟していたからか、射場長も特段感慨の思いを抱く様子も無く毎日迎えていた営業終了と変わらない様子で、後片付けをこなしていた。
 町長が来るでも、開発公社の役員が来るでもなく、セレモニーも何もない閉場。
 この射撃場が、“国際的リゾートとしての軽井沢、文化の香り漂う軽井沢にふさわしい施設”であったのは過去の事であるという事実を、率直に思い知らされた。
 40年に亘る伝統ある射撃場の、華麗であった時期を過ごした人々が誰も訪れることなく迎えた閉場の日。
 若い頃から毎夏の避暑を、ここで過ごした往年の名射手。親父さんのお供で射撃見学し、いつかは自分の銃を持つことを夢見たかつての少年。
 少なくとも私が見た範囲では、彼らと出会うことは無かった。
 勿論閉場を惜しんで、今日のこの日以前に訪れた人々もいたのだろう。
 しかし、特別な日であった最後の日は、このような形であっけなく過ぎ、軽井沢国際射撃場は、その歴史の幕を下ろした。

 射撃場の跡地をどのように利用するか、軽井沢町はまだ何も決めていない。ただ単に閉鎖が決まり、それが実行されただけだ。この日、軽井沢のリゾート地としての魅力に、厚みを与えていた施設がひとつ消えた。そう思っているのは私達だけなのだろうか…

上の3枚の写真が2003年11月14日、軽井沢国際射撃場最後の日のもの。上からトラップ第2射場、スキート射場, スキート射場のプーラーハウス内部

 これはMaokaとTanokuraが軽井沢射撃場の歴史をまとめたものです。二人とも年齢的に、旧軽井沢射撃場を知りませんし、軽井沢国際射撃場の最盛期を知っているわけではありません。
 ですからこの文章は部分的に間違っている可能性がありますし、その他多くの点で不明な事もあります。これをご覧頂いた方で、もし軽井沢射撃場の歴史について情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、mailにてお知らせ頂きますと幸いです。

Dec.26, 2003 by Satoshi Maoka & Y.Tanokura

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