On the range. Ten months later 軽井沢国際射撃場、10ヶ月の後
(2005年7月28日、画像を差し替えました。写真の右下に赤い●がついているものは、2005年7月に撮影し直したものです。)
2003年11月14日、軽井沢国際射撃場は、閉鎖された。この美しい高原に戦前から続いてきた射撃場の歴史が閉じたのだ。もう春の訪れとともに、この場所にシューターが帰ってくることはない。
私は2003年12月、“On the range 軽井沢国際射撃場最後の日”として、軽井沢と射撃の歴史、閉場までの経緯、そして最後の日の姿をここに記した。
かつて射撃場が軽井沢にあり、数多くの人々に愛されてきたことをどうしても記録しておきたかったからだ。
“避暑地 軽井沢”(小林 收 著)は、軽井沢の歴史について詳細に書かれている本だ。軽井沢とスポーツの結びつきについても詳しい。
しかし、戦前に雲場の池近くにあった射撃場の存在については一切触れられていない。現在のプリンスショッピングプラザ近くに戦後の一時期、クレー射撃場があったことも書かれていない。この地に別荘を持ち、避暑に訪れる人達にクレー射撃が愛されていたこと、そして大口径ライフルからポジションシューティング用のSB射撃場、10mエアライフル射撃場まで、すべてが揃った総合射撃場があったことは、この高原のスポーツ史を語る上で決して忘れてよいことではない。
誰かが書かなければ、いずれ忘れられてしまう。このsiteに書いたからといって、後世に残ることは無い。しかし書かずには居られなかったのだ。
2004年の晩夏、私は軽井沢に向かっていた。あの国際射撃場がその後、どうなったのか、この目で確認したかったのだ。
軽井沢バイパスを塩尻湖方面に曲がると、まもなく軽井沢高原文庫が左手にあり、塩尻湖タリアセンが右手に見える。この季節は緑が多く、高原の爽やかさにあふれてとても気持ちが良い。そしてまもなく風越公園に着く。この公園の一角に軽井沢国際射撃場があったのだ。

軽井沢国際射撃場跡地 「軽井沢町植物園 自然園」 2005年7月撮影
道路に面したゲートに立って軽井沢射撃場の方向を見る。その景色は閉鎖から9ヶ月以上経過してもほとんど変わらない。茶色い木造のクラブハウスもそのまま建っているし、一番手前の第一トラップ射場も、そのまま変わらないように見える。
だがクレーを追いかけて放たれる、心地よい銃声は聞こえない。ゲートには既に軽井沢国際射撃場の文字はなく、それに変わって、“自然園”と記されているのだ。
しかしその表示は、普通のプリンターで白い紙に1文字ずつ大きなフォントで打ち、それをラミネート加工したものを貼っているに過ぎない。
この自然園は2004年8月1日、仮開園したものだ(2005年夏になっても、“本”開園したようには見えない)。
クラブハウスだった建物に近づく。かつて入り口の右横に掛かっていた木製の “軽井沢国際射撃場”の看板も当然、外されていた。しかし、その下にあった壁の木部に掘り込んだ“軽井沢国際射撃場”の文字は削り落とされることなく残っている。壁面に塗った茶色の塗料で、その文字は見えにくくなってしまってはいるが。

ガラスドアには銀色の文字で“軽井沢国際射撃場”とあったが、これも“軽井沢”の文字だけが残され、あとの部分は消されている。
入り口のドアや窓からクラブハウスの中を覗くと、ガランとしていて、建物として特に利用されてはいないようだ(2005年夏に確認したところ、“スポーツコミュニティ 軽井沢クラブ”という新たな看板が掲げられていた。どうやらスケートリンクのクラブハウスとして、冬に利用されるようになったらしい)。

軽井沢国際射撃場 第一トラップ射場跡、 「軽井沢町植物園 自然園 展望台」
手前のトラップ射場の方に行ってみる。そこには展望台という表示があり、射座には古い椅子(病院の待合室にあるような黒い長椅子と簡易ベンチ)が置かれ、射撃方向を眺めるようになっている。 展望台? いったい何を展望するのか…。その椅子から見える景色は、クレー射撃場の景色そのものだ。去年までは、1日中、白いクレーが飛んでいた景色だ。この時期は緑が深く、とても気持ちが良い。射撃場として利用されていた時は草などが短く刈られていたが、今は長く伸びている。この展望台は、ここに生えている植物を眺める場所ということらしい。
確かにこの第一射場は放出機のある場所まで15mほどのテラスのような作りだった。射座には屋根もある。それをそのまま利用して展望台とした。プラーハウスもそのままだ。地面には、射座の四角い枠も残っている。柱には、予備のショットシェルを置く小さな台が付いたままだ、このテラス状の部分から人が落ちることを避けるために、3辺にロープが張られている。
自然園が仮開園した8月上旬には、アサマキスゲが咲き乱れていたという。私が訪れたのは8月の終わりだ。アケボノソウ、ベンケイソウ、ヤマラッキョウなどの花がみられるらしいが、少なくとも私が見たときには、もうそれらの花は終わっていた。
季節毎にそこから見える植物は変わるだろう。しかし9ヵ月前までは射撃場だった場所だ。急に花々が美しく生い茂るとは思えない。自然園とはいえ、おそらく人為的に種を蒔いたのだろう。
軽井沢町議会は2003年春にクレー射撃場の閉鎖を決定したが、それに関わる費用を計上していなかったのではないだろうか。翌2004年度、軽井沢町の予算総額は103億500万円だったが、この場所の再利用経費は特にあげなかったと見える。今年度の主な事業の中にもこの場所の再開発計画はないようだ。自然園という看板すら暫定的なものでしかない。

第二トラップ射場跡地
堀辰雄の“美しい村”は、昭和8年の軽井沢を舞台にしたものだ。“美しい村”という小説を書こうとしている「精神的に危機的状況にある作者(堀辰雄自身)」が思い出深い軽井沢の地で経験する情景を描いている。その中に、数々の花や草木が登場する。藤棚、樅(もみ)、落葉松、野薔薇、ツツジ…
この自然園に訪れる人々の目を、そういった草木で楽しませる、という事なのかもしれない。しかし私が訪れた8月の終わりには、このトラップ射台展望台からは見るべきものはほとんど無く、ただ雑草が伸びていたに過ぎない。別の季節には、きれいな花が咲いているのかもしれないが(2005年7月に見ても、特に美しい花が咲いているわけではなかった)。
荒れ果てたまま放置されているわけではない。通路や入り口付近はきれいに雑草を刈ってある。今回、私がこの場所を訪れた初日には、小雨が降る中、軽井沢町から委託された業者と思しき人が電動の草刈機を持って、雑草の除去をしていた。

クレー射撃場閉鎖に先立ち、2001年に閉鎖されたライフル射撃場跡。ここは「大口径ライフル射撃場、50mスモールボアライフル射撃場、エアライフル射撃場があった。昭和53年長野やまびこ国体のライフル射撃競技会場でもあった。現在はスケートリンクになっている。スケートリンクを作るに至った理由は、“On the range 軽井沢国際射撃場最後の日”で述べた。
キチンと管理されている点は気分的に安心した。しかし、しっかりとした計画のもとにこの射撃場が閉鎖されたのではないことは明らかだ。単に付け焼刃的に自然園としたに過ぎない。
風越公園の中に、ここから200mぐらい離れて、軽井沢町の植物園が存在する。射撃場跡地の自然園はその付帯施設となっているらしい。その経緯を知らずにこの射撃場跡の自然園を訪れた人は、何もない不思議な作りの空間を見て怪訝に思われるだろう。
このままずっと自然園として維持するのか、あるいは再開発予算取得後は、何かスポーツ施設でも作るのだろうか。
今なら、まだ再び射撃場として再開することも物理的に不可能ではない。しかし近くに分譲された別荘のオーナーが黙っていないだろう。射撃場が近いことを知っていながらその別荘を買い、その後、射撃場の銃声がウルサイと文句を付けたのは、なんとも身勝手な態度だ。そこにはなんら正当性はないだろう。しかし、いったん閉鎖された射撃場が再開したとなれば、彼らは射撃場の銃声を騒音公害として法廷闘争に持ち込むこともできる。これでは再開不可能だ。
風越公園は1964年東京オリンピックの馬術競技開催地だった。そして長野オリンピックではカーリング競技場として使用された。2つのオリンピック競技開催地、その事実を残すモニュメントとして公園内に2つの聖火台が並んでいる。
 
左:軽井沢町植物園 右:第18回近代オリンピック東京大会及び第18回冬季オリンピック長野大会の記念碑
射撃場の入り口には鳥獣慰霊碑があった。これは今もそのままだ。軽井沢国際射撃場の跡地に、私は射撃場の記念碑を作って欲しいと思う。小さなものでも構わない。かつてこの軽井沢の地に、総合射撃場があり、多くのシューターで賑わった事実を残すものだ。この射撃場を愛した人達の多くは、軽井沢の地を愛した人達でもある。軽井沢にはこういった記念碑がたくさんある。
時代の変化に伴い、さまざまなものが出来る。その一方で消え去るものもある。軽井沢の町も毎年、その姿を変えている。旧軽銀座通り奥にある、数多くの文士たちに愛された、つるや旅館の向かい側は、 旧碓氷峠の宿場町であった時代を思わせる古い町並みが昨年までは一部残っていた。しかし、今年はすっかり新しい建物に切り替わっている。古いものに何時までもこだわっていては先に進めない。しかし古いものをむやみに切り捨て、忘れ去るのも決して正しい事ではない。
銃、そして射撃は文化なのだ。食物を得る為の狩猟と、敵対する者を倒し生き残る技術(同時にそれは愛する者を守るための技術でもある)、そして遠くの的に石を投げて当てるという遊び。人間が繰り返し続けてきた生きるための行為とプリミティブな欲求を、形を変えて平和なスポーツとしたもの、それが射撃だ。ゴルフやテニスなどより、ずっと人間の本質に近いスポーツだと思う。
数多くの人々で賑わった軽井沢射撃場が、この美しい高原にあったことを後世に記録として残す。それは文化的なことではないかと私は思う。
2日続けて私はその自然園の展望台に立った。2日目には雑草を刈る業者はいなかった。自然園には他に誰もいない。雨上がりの空の下、私がそこにいた30分ぐらいの間、けっきょく誰も訪れることは無かった。
その展望台で、私は3番射台に立った。足を斜め45度の位置に置き、狭いスタンスを作った。両手はあたかも12ゲージのショットガンを持っているかのように構え、上半身を前傾姿勢にする。在りし日の軽井沢国際射撃場の姿がそこに甦った。ここは展望台などではない。トラップ射場だ。

軽井沢国際射撃場第一トラップ射場の射台からの眺め。ロープが無ければ射撃場であったときのままだ。
そして私は鋭く叫んだ。
「Pull!」
イメージの中で白いクレーが放出され、右に飛んだ。私は落ち着いて身体をスイングさせ、トリガーを引く。
もちろん乾いた銃声など響くことはない。しかし、私の心の中で銃声が甦り、クレーはきれいに粉砕されて、消えた…
柔らかな微風が心地よい。目の前の光景は緑豊かな夏の軽井沢国際射撃場そのものだ。
もういちど引き金を引き、心の中で銃声を響かせた。これは送別の弔砲だ。
すべては幻…
もうこの場所で銃声は響かない。クレーが美しいシュプールを描いて飛ぶ事はない。10ヶ月近く前に終わったことだ。私は射台を降りた。そして振り返ってもう一度、緑豊かな射撃場を見渡し、この場所を立ち去った。
このページに掲載した写真は2004年8月末と2005年7月に撮影しました。写真の右下に赤い印を付けたものは2005年7月に撮影し直したものです。
Satoshi Maoka
Sep.21, 2004
July 28, 2005 Revised
2003年12月26日掲載 “On the range 軽井沢国際射撃場 最後の日”
△ up
|