日本光学が1936年(昭和11年)頃に試作した焦点鏡固定式狙撃眼鏡(社内開発名:小鏡五型)と思われるものの照準上下調整回転目盛盤(Elevation dial)
Nikon Rifle Scope 日本光学狙撃眼鏡  By Satoshi Maoka

日本を代表する光学機器メーカーはどこか?という問いがあったなら、多くの日本人はニコンの名前を挙げるはずだ。
 旧社名“日本光学”、このストレートな名前の光学機器メーカーは、自社ブランドのカメラに“Nikon”の名を冠している。
 ニコンの名前が世界に知れ渡ったのは1950年の事だ。当時、カメラとレンズはドイツ製が最高であると信じられ、報道カメラマンはライカやコンタックスを使っていた。
 日本製のカメラやレンズなどプロフェッショナルは誰も使わない。しかしLIFEのカメラマン、ダグラス・D・ダンカン(D.D.Duncan)は、同僚の日本人カメラマン三木淳を通じて、ニッコールレンズ(日本光学の写真用レンズのブランド)を知り、その描写力に驚いた。そして彼は自分のライカIIIcに、ニッコールレンズを付けて朝鮮戦争を取材した。
 ダンカンの同僚カール・マイダンス(C. Mydans)も、ニッコールレンズを改造し、コンタックスの取り付けて朝鮮半島に渡った(のちにカメラもNikonを使う)。彼らが取材した朝鮮戦争の写真は、1950年USカメラ賞を獲得した。その後、LIFEのハンク・ウォーカー(H.Walker)は、ニッコールレンズだけではなく、カメラ本体もNikon Sを使い朝鮮に向かった。
 厳寒の朝鮮半島北部で、ドイツ製カメラは次々とトラブルを起こしたが、ウォーカーの持つ厳寒地仕様のNikon Sは何事もなく働き続け、戦場の姿を記録し続けた。
 ニッコールレンズの、35mmとは思えないほどの高い描写力がLIFEのカメラマン達に賞賛され、また同時にNikon Sは優れたカメラとして認識された。LIFE編集部はニッコールレンズをテストし、当時最高峰とされていたカールツァイスよりあらゆる面で優れているという結果を発表した。
 1950年、Made in Japanはまだ粗悪品の代名詞だった。SONYやHONDAが世界中で評価されるよりも前に、Nikonは日本の技術力をいち早く世界に知らしめた。
 その後、1眼レフの時代になり、日本光学はNikon Fを市場に投入した。これにより、ニコンブランドは35mmカメラの分野でその地位を不動のものとした。
 そんなNikonではあるが、現在企業としての主力はカメラ、レンズの生産より、ステッパーを始めとする半導体製造装置にシフトしている。半導体業界の世界的リセッションにより、事業別売上比率を見ると、2002年はカメラ関連の映像事業が、半導体関連の精機事業を超える売上を記録したが、それまでの数年間は半導体関連の売上が映像事業を大きく上回っている。 しかし、ステッパーも光学機器であり、Nikonが、光学機器メーカーであることに変わりはない。
 半導体製造装置が中心事業になっていても、カメラといえばNikonというイメージは簡単に消えはしない。
 そんなニコン(日本光学)だが、カメラの製造を開始したのは、意外にも第二次世界大戦終結後だ。戦前戦中の日本光学は、光学兵器を生産する大軍需産業であった。

光学兵器国産化
 “鉄鋼、火薬、光学兵器の3大工業が戦争の勝敗を決める”、ドイツ最後の皇帝ウィルヘルムII世(Kaiser Wilhelm II)の言葉だ。 20世紀初頭のドイツは、この言葉通りに、それらの産業を育成する政策をとっていた。ドイツの光学機器が当時から優秀であったのは、国家からの大きな支援が得られていたということも、少なからず影響している。
 日露戦争(1904-1905 明治37年−38年)の時、日本軍の武装は外国製品が大半だった。光学兵器もその例外ではない。当時の光学兵器とは、正確に砲の照準を合わせるために敵までの距離を測る測距儀、および測遠機、望遠鏡、双眼鏡などをいう。これらの光学兵器は、戦場の眼と呼ばれ、特に測距儀と測遠機は勝敗を決する為の重要な道具であった。
 光学兵器について、ほぼ100%輸入に頼っていると言う状況を打開すべく、陸軍は明治39年、小石川区(現在の文京区)にあった東京砲兵工廠砲具製作所から、同工廠精機製作所を独立させ、双眼鏡や測遠機を生産し始めた。
 一方、海軍は直轄工場で光学兵器の研究と製作に乗り出すと共に、民間企業の育成を始めた。
 1906年(明治39年)、海軍向けに航海用計器を製作していた和田計器製作所(のちの東京計器、現在のトキメック)は光学計器部を新設して、望遠鏡や測距儀の研究を始めている。1909年、藤井レンズ製作所が創立、望遠鏡等の製作を開始した。
 この時期、日本海軍は潜水艦の製造に乗り出す。当初は外国製品を発注し、日本で組み立てを行っていたが、やがて独自設計の潜水艦を建造するようになった。しかし潜望鏡を作る技術を日本はまだ持っておらず、潜望鏡は輸入にたよらざるを得なかった。
 1914年(大正3年)、第一次世界大戦が勃発した。この影響で、日本海軍は巡洋戦艦 榛名に装備するイギリス・バー&ストラウド製の4.5m及び1.5mの測距儀、主砲用Z型照準望遠鏡の輸入が出来なくなってしまった。
 一方、この同時期に三菱合資会社も英国ビッカース社と提携し、潜水艦建造事業に参入した。しかし、第一次世界大戦の真っ只中、潜望鏡の入手は困難を極めた。ヨーロッパは戦火の嵐が吹き荒れ、とても光学兵器を日本に輸出するような状況ではなかったのである。
 光学兵器生産が出来る技術力をもった自国企業の必要性を、このとき海軍は痛感する。

日本光学誕生
 日本海軍は10年間で強大な大艦隊を作り上げる“八八艦隊”計画を作成、列強諸国と並ぶ強大な海軍力を持つことを目指した。これには測距儀や潜望鏡の光学兵器は不可欠だ。
 そこで、海軍は既存の光学メーカーを集結させ、技術力を集約し、光学兵器の開発生産能力の増強を図る事とした。海軍の要請により三菱が、光学兵器製造メーカー設立に力を注ぐことになった
 1917年、三菱造船の出資で東京計器の光学計器部と、サーチライトの製造を行っている岩城硝子製作所の探照燈反射鏡部門を統合し、日本光学工業株式会社を設立した。
 光学ガラスを生産出来る藤井レンズ製作所が、この新会社に参加することは絶対必要なことだった。しかし藤井レンズは望遠鏡、双眼鏡の国内メーカーとして既に独占的な地位にあり、三菱の新会社と合併しなくてはならない理由などなかった。
 しかし海軍からの強い要請もあり、最終的に藤井レンズ製作所は、日本光学への統合に合意した。
 こうして1917年(大正6年)日本光学工業が誕生した。しかし3社の技術が結集したからといって、すぐにその製品開発能力が飛躍的に向上するわけではない。
 藤井レンズ製作所を取り込んだことで、望遠鏡や双眼鏡は容易に作れる。しかし,日本光学が目指していたものは測距儀及び潜望鏡だ。これには大いに苦戦することになった。
 東京計装は合併前から測距儀を試作していたものの、その完成度は全く不十分なものだった。潜望鏡も同様で,光学的に未熟である上,レンズの曇り,そして水漏れという問題の克服に苦労すると言う状態だった。
 そこへ,カール・ツァイスとの提携の話が舞い込む。海軍はこの話に大いに乗り気だった。ツァイスと提携すれば技術的問題は一挙に解決する。しかしこの話は実現しなかった。
 ツァイスとの提携が不成立に終わったあと、1921年に日本光学は技術向上のため、マックス・ランゲ博士を中心とした優秀なドイツ人光学技術者8名を招聘した。 これにより日本の光学技術は飛躍的に向上する。苦戦していた測距儀や潜望鏡も、ドイツ人技術者たちの力で、その完成度を大きく高めた。
 しかしこのとき,日本光学は早くも長い冬の時代に突入していた。1922年(大正11年)、ワシントン軍縮条約が成立、各国は海軍勢力を削減することとなった。主力艦は米英50万トンに対し、日本30万トンいう制限が加えられ、日本はこれに反発したものの、この決定を変えることは出来なかった。これにより八八艦隊構想は屯座し、製造は中止となってしまった。
 光学兵器生産を柱としていた日本光学は、会社存続の危機に見舞われた。海軍からの支援はあったが、それだけでは不十分だった。このとき、売上げを伸ばす為に日本光学は民需品の生産を計画したが、結局満足のいくものを生産することは出来ずに終わった。
 このとき、写真用レンズ“アニター”が、招聘ドイツ人技術者、ハインリッヒ・アハトによって作り上げられた。アニターはその後、日本光学が1931年“ニッコール”レンズを作り上げるための貴重な指標となった。このニッコールレンズは、のちに国産初の精密小型カメラ、精機光学研究所(現在のキヤノン)の、ハンザキヤノンに使用された(余談だが、多くの人が、Canonのことを発音とおなじく“キャノン”と書くと思っている。しかし正しくはキヤノンと書くのだ)。
 1923年(大正12年)の関東大震災は、日本光学に一つの転機をもたらした。この地震で小石川の東京砲兵工廠が壊滅してしまい、陸軍はその光学工場を失った。これをキッカケに海軍一辺倒だった日本光学に、陸軍からの発注が来るようになった。ワシントン軍縮条約により経営不振にあえいでいた日本光学は、陸海両軍からの支援を受けるようになったわけだ。

戦争、そして敗戦
 1931年(昭和6年)、満州事変が勃発、日本は戦争に向かって突き進んでいった。
 戦争は兵器メーカーを潤す。それまでの経営不振は一挙に解決し、日本光学は新工場をどんどん建て、人員を拡大していった。
 1932年(昭和7年)、陸軍関係の光学兵器製造を目的として、東京工学機械(現在のトプコン)が設立されたが、それでも需要に生産が追いつかない。光学メーカーであった小西六写真工業、千代田光学精工(現在は両社合併で、コニカミノルタカメラホールディングス)、高千穂製作所(現在のオリンパス光学工業)なども光学兵器生産に転換させられた。
 1933年(昭和8年)、日本光学は、九一式高角砲射撃指揮装置を完成した。これは照準望遠鏡と動揺望遠鏡が組み合わされ、内部に28個の計算機と6個の通信機が配置された総部品数38,000点の機械式アナログコンピューターだ。目標位置測定データを解析し、砲を発射するためのデータ算出を行うものだ。

旧日本軍のライフルスコープに印された製造メーカーのシンボルマーク。左上の“TOKO”はおそらく東京光学(トプコン)で、その下が日本光学(ニコン)、“AKATHIHI”とあるものは、おそらく“TAKACHIHO”の読み間違えで(これは外国人が書き写したもの)、高千穂(オリンパス)と思われる。接眼レンズ、または対物レンズ近くの本体ボディ側面に印されていた。

 1934年(昭和9年)には潜水艦用指揮装置九ニ式潜水艦方位盤が作られた。同年、超大型戦艦「大和」用測距儀の設計が始まった。主砲46cm砲の最大射程距離は40km以上とされた為、測距儀の基線長は15mとなった。
 1937年(昭和12年)、日中戦争が勃発、日本は戦時体制に入った。これにより光学兵器の需要は更に拡大していく。この年、九四式高射装置が完成した、照準装置には4.5mステレオ測距儀が搭載され、動揺望遠鏡と連動し水平を維持する。
 1938年(昭和13年)、戦艦「比叡」用に九八式方位盤照準装置を製造、この改良型が超大型戦艦用となった。
 1941年(昭和16年)から翌年にかけて、15m測距儀(正確には基線長15.72mと15.28mの長短二種類が組み込まれており、平均15.5m測距儀とするのが正しい)が完成し、「大和」と「武蔵」に搭載された。1941年には一式1号爆撃照準器を試作、同年、射撃・急降下爆撃両用の二式1号爆撃照準器が作られた。
 また、光像式射爆照準器が生産され、1942年(昭和17年)、三式射爆照準器が完成した。
 アメリカ軍から鹵獲したノルデン式全自動爆撃照準器をコピーし、製造する事も試みられた。1945年7月24日、試作品のテストが行われたが、まだ改良の余地が多いものだった。それから1ヶ月も経たないうちに、日本は敗戦を迎える。
 敗戦は日本光学にとって、会社存続の危機であった。製品の大半が海軍と陸軍に納入していた光学兵器であった為、得意先が一挙に消滅してしまったわけだ。敗戦時には従業員19.000名、兵士として召集されていた者を含めると25,000人もの従業員がいた(徴用工員、学徒動員の学生労働者、女子挺身隊員を含む)。
 生産品目の無くなった日本光学は、従業員の大半を解雇せざるを得なくなり、結果として会社に残ったのは1,724名だった。

兵器メーカーからカメラメーカーへ
 日本光学が会社として存続するためには、何かを作らなければならない。紆余曲折の末、カメラで民間市場に打って出ることが決まった。商品名に使うブランド“Nikon”は1946年に登録された。
 戦前、航空機撮影用の航空カメラや、偵察用車載超大型カメラの製造の経験はある。しかし普通のカメラを製造したことはない。
 日本光学の技術者達は、カメラなどという単純な道具は簡単に出来ると思っていた。高度な光学兵器を作っていたのだ、カメラの設計製造などで苦労するはずはない。
 しかし、その甘い考えと驕りは、粉々に打ち砕かれる。何度も手直しして、やっと1948年(昭和23年)、第一号カメラが発売にこぎつけた。しかしそのニコンI型は、カメラ評価で権威のあるマージャラム氏のレポートで酷評されてしまった。特にレンズの描写力についての評価が厳しい。
 日本光学の技術者達は、改良に取り掛かった。ダンカンらによってNikonの驚くべき描写力が認められたのは、その2年後のことだ。
 LifeのカメラマンがNikonを使っていること、そしてその性能を賞賛していることは1950年12月10日のNewYork Timesで報道された。しかし、これだけでいきなり35mmカメラの最高峰となったわけではない。確かにNikonの名前は世界に広まったが、ビジネスとしての成功には結びつかなかった。
 マージャラム・レポートで厳しく批評されたNikonI型はテナックス判(別名:ニコン判24mm×32mm)で作られていた。これの欠点を改良し、filmサイズもライカ判に近付けた24×34mmのNikon MとニッコールレンズがLifeのカメラマン達に評価されたわけだが、これはまだ完全な製品ではなかった。
 大幅な改良を施し、光学式等倍ファインダーを搭載したNikon S2が1954年に登場する。画面サイズも24×36mmの完全なライカ判となった。アメリカの雑誌コンシューマーズ・リサーチは、このNikon S2を絶賛した。
 このNikon S2によってNikonの名は世界中に知れ渡り、製品が次々輸出されるようになった。1957年、距離計連動式のNikon SPが発売、1959年には35mm一眼レフカメラ Nikon Fが登場した。やがてNikonは世界最高の35mmカメラと位置付けられるようになる。
 もはや光学兵器メーカーとしての日本光学ではなく、カメラメーカーとしての地位を不動のものとした日本光学は、1988年、社名を株式会社ニコンと変更した。世界に広まったNikonブランドをその社名としたわけだ。もはやそこには、光学兵器メーカーとしての面影はない。

日本光学製照準眼鏡
 戦後のニコンブランドの製品は多岐にわたっている。その殆どは光学製品だ。
 写真用カメラ及びレンズとそのアクセサリー、測量器、メガネ、サングラス、実体顕微鏡、座標測定器、X線ステッパー、エキシマレーザステッパー、電子ビーム測長装置、望遠鏡などがNikonのブランドで供給されている。
 自衛隊が編成された事で、再び光学兵器を製造供給している。潜水艦用潜望鏡、及び戦車用照準望遠鏡がその主な製品で、特機事業部が受注している。 しかし、この事実はあまり知られていない。
 その中にライフル・スコープも存在する。昭和39年、日本光学は自衛隊にライフル・スコープを納入した。倍率2.5倍、全長315mm,重量600g, これは自衛隊が64式アサルト・ライフルを狙撃用として使用することを考えての発注だ。
 日本光学がライフル・スコープを設計製造したのは、これが初めてではない。数々の光学兵器を設計製造した戦前戦中に、日本光学はライフル・スコープも製造した実績がある。殆ど知られていないのは、他の製品があまりにも高度な技術を使った製品であったため、その中で比較的地味なライフル・スコープは目立たないからだ。

日本光学が試作したものは、38式小銃用のスコープで、今回掲載した写真のものが、正に試作第1号そのものと思われる。アイピース下部に日本光学の当時のマークとその下に“No.1”、さらにその下に“JESねぢ” 、マークの上部に“4X 6°”と記されている。


アイピースはゴムではなく、布の内部にコイルスプリングを入れたものだ。量産品のアイピースはゴム製だが、試作の段階では型をとってアイピースを制作するわけに行かなかったので、このような布製アイピースが付いている。スコープ本体の全長は228mmほどで、アイピースの長さは44mmだ。日本光学は当初50mmのアイリリーフで試作を始めたが、最終的な製品は30mmとなった。


エレベーション(上下調整)ダイアルのみで、ウィンデージ(左右調整)ダイアルはない。スコープマウントで左右調整を行ったと思われる。

日本光学の試作したスコープは、2.5倍と4倍の2種類の倍率があった。最終的に陸軍が制式採用したものは社内呼称“小鏡十一型”という、倍率2.5倍の製品だった。これが38式を改良した97式狙撃銃の照準眼鏡として採用され、陸軍の制式名称は97式狙撃眼鏡である。その後、小鏡十四型が試作され、また小鏡十六型という4倍の製品を完成させ、99式狙撃眼鏡という制式名を得たが、十四型、十六型は共に日本光学では試作のみで量産されることなく敗戦を迎えた。99式狙撃銃に付けられたスコープは、日本光学以外の光学機器メーカーが製造し納入したものだ。

ニコン・ライフルスコープ
 ニコンのスコープ製造は、戦後少数を自衛隊に納入した以外、ほとんど皆無に等しい。Nikonブランドの双眼鏡やバードウォッチング用のフィールドスコープは製造販売されている。日本国内の射撃人口を考えれば、スコープなど製造しても大した受注は見込めないということは容易に想像が付く。しかし、世界的に見ればライフルスコープの製造販売は十分、採算に合うものだ。Nikonのブランド名が付けば、それは良質の製品であると多くの消費者は思うだろう。
 結局、日本光学は、ライフル・スコープをその製品ラインナップに加えることはしなかった。民生市場に向けて銃器の付属品を製造販売することに抵抗感があるのかもしれない。
 しかし、海外にはNikonブランドのライフルスコープが存在する。
 1990年、タイにNikon (Thailand) Co.Ltd.が設立された。従業員209名、光学機材器具の製造及び輸出を業務としている。ここでNikonブランドのライフル・スコープが製造されている。

                  Nikon Monarch UCC(Ultra Clear Coat) 6.5-20×44

 そのラインナップは多岐にわたっている。$100前後で販売する廉価版“Pro−Staff”シリーズ、$200前後の普及価格帯である“Buckmaster”シリーズ、“Monarch UCC, Monarch Gold、Taitanium UCC”のクラスになると$500前後となり、比較的高級品の部類に入る。さらにその上に最近Tactical Modelも加わった。
 Leupoldの一部上級品やNight Force, Schmidt & Bender、Carl Zeissなどを最上級価格帯とすれば、それより安いLeupoldの一般製品は上級品に位置付けられる。一方、Tasco, Redfield, Simmons, Bushnellなどは安価な製品が多い普及品ブランドだ。
 Nikon Scopeの位置付けは、Leupoldと普及品ブランドとの中間に当てはまる。いわゆる並、中級品だ。
 品質が悪いということはなく、また安っぽくもない。
 アメリカのハンターの間での評判は悪くはない。この価格で“Nikon”が手に入るなら悪くない。
 しかし私は、Nikonにはもっと上級の製品に挑戦して貰いたいと思っている。世界に冠たる“Nikon”のブランドを付けているのだ。他社の追随を許さぬ圧倒的な品質と性能のスコープが欲しい。それは一切の妥協はない製品でなくてはならない。
 かつては光学兵器を作り、戦後は最高のカメラとレンズを作り続けてきたNikon。そこには輝かしい光学機器開発、製造の歴史がある。それを背景に、最高のスコープを作りだして欲しいと思う。
 U.S.Optics, Schmidt & Bender、Carl Zeiss, Leupold, Swarovski, Unertl …これらと比較しても劣ることのないScopeが作れるはずだ。Night Forceは日本製だが、日本ブランドではない。
 タイ製ではなくMade in Japan, 日本ブランドの最高性能のスコープが欲しい。Nikonにならそれが出来るはずだ。

Nov.16, 2003
Satoshi Maoka

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