| Book Review 東郷隆 “狙うて候” by Satoshi Maoka
祝 第23回 新田次郎賞受賞
村田経芳(つねよし)は天保9(1838)年、鹿児島の薩摩藩士の家に生れた。通称、勇右衛門、幼い時に彼は、兵学に興味を持った。そして桜島の見える浜辺で大筒の調練(射撃練習)を目撃する。これが経芳の人生を決定付けた。数年後、銃、大筒を使用する戦法を研究する流派のひとつ、合伝流の門をくぐる。その後、荻野流砲術の習熟に努めた。
日本に鉄砲が伝わったのは天文12(1543)年のことだ。その後、火縄銃は日本独自の発展を遂げてその完成度を高めていった。しかし17世紀前半の寛永期から鎖国政策が進み、海外との交流は限定されていく。また幕藩体制の強化で戦乱が殆ど起きない平和な時代が長く続いた。争いが無い時代に武器は進化しない。日本の火縄銃は進化を止めていた。
もちろんフリントロックを日本が知らなかったわけではない。オランダとの細い線で西欧の最新技術は蘭学として日本にもたらされていた。しかし日本の石英では発火量が少ないため不発が多く、また複雑な構造から発射の際に銃が振動して命中精度を悪化させるという問題があった。そのため、日本人は火縄銃を手放すことはなかった。
19世紀に入り、外国船がたびたび寄港するようになり、日本も開国せざるを得なくなった。しかし欧州列強は植民地政策を進めており、一歩道を誤れば、日本は欧米の草刈り場と化す可能性があった。日本が植民地とならない為には、いち早く近代産業国家となり、欧州列強と肩を並べる力を持たなければならない。
そのころ、村田経芳は射撃の名手となっていた。薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)から研究用として与えられた西洋式パーカッション銃が、砲術の師匠のもとにあることを見た経芳は、これに猛烈な興味を持った。新しい技術を学ぶことに、彼は人一倍、貪欲だった。
西洋技術の導入に積極的だった藩主の下、鉄砲調査役についた経芳は火縄銃を大きく上回る洋式小銃の有効性を目の当たりにした。
「欧州列強に負けない洋銃を日本で開発し自ら製造する」これを持って国家に軍備の統一を図る。日本の独立を保つための、村田経芳の遠大な計画が始まった。
この東郷隆の著作「狙うて候」には、村田経芳が13年式村田銃を開発するまでの人生が描かれている。度重なる苦難を跳ね除け、銃器開発の道を切り開いていく姿に、銃を愛する者として共感を覚えずにはおれない。
旧弊な火縄銃勢力からの妨害、研究の理解者であった藩主の死後、生活に困窮しながらも独力で続けた銃器研究、御試元込銃製造所の設立、官軍として戊辰戦争を戦い、その後、御親兵士として上京、ヨーロッパに渡っての銃器研究、各国の射撃大会での勝利、かつて新生日本を作るために共に歩んだ西郷隆盛や薩摩人と西南戦争で敵として戦う運命。
日本最初の近代軍用小銃 十三年式村田銃の開発者が、これほどまでに波乱に富んだ人生を送っていたことに驚いた。
今日、村田銃について語られる機会はほとんどない。たとえ語られたとしても、村田銃はフランスのシャスポー(Chassepot)M1866の単純なコピーとして切り捨てられてしまっている場合がある。しかし、この「狙ろうて候」を読めば、そんな意見はたいへんな見当違いであることが判る。
鎧兜に刀と火縄銃といった戦国時代そのままの武装しかなかった日本で、近代国家として相応しい銃を研究し、自国製の銃を高い品質で完成させたのだ。結果的に調査対象とした既存の洋銃の利点を数多く取り入れ、独自性は無かったとしても、その時代背景を思えば、全く無理もない話だ。
自国製の銃を作らなくとも、外国から最新のものを輸入すればよいという意見も強かった。しかし、その中で村田経芳は自国製の銃を開発し、それで日本の軍備を統一することを強く主張した。
それは村田自身の戦場体験と、欧州列強の作る最新の軍用銃を研究し続け、さらに10ヶ月間のヨーロッパ研修で、欧州各国の軍と装備を直接見てきたことで身に付けた近代国家意識であった。
当時、銃はどんどん新しい技術が生れていた時代だ。新式銃として注目を浴びても、そのほとんどは数年後には旧型として消えていった。その中で、十三年式村田小銃は、欧州列強の軍用小銃と比較して、互角の性能、品質を持つものだった。当時の日本でこれだけのものを作り出せたことを私達はもっと誇って良い(十三年式村田銃のバレルはベルギーから輸入したものであり、完全な国産銃とは言い切れない)。
十三年式村田小銃は正確にはシャスポー(Chassepot)のコピーではなく、その改良型グラース(Gras)M1874をベースに、バーモン(Beaumont)M1871ターンボルトアクション・ライフルのボルトデサインを組み合わせて完成された。十八年式は十三年式の改良型だ。
二十二年式村田小銃とのちに呼ばれるようになった戦用村田連発銃は、無煙火薬を使用、小口径化した上に、バレル下部に8発のチューブラー(Tubular)・マガジンを装備した、わが国最初の制式国産連発銃だ。

残念ながら二十二年式の評判は良くない。チューブラー・マガジンの弾を撃ち尽くしたら、再装填が困難で、使用した兵士の中には、「若干の予備弾を銃の中に収めることが出来る単発銃」と呼ぶものもいた。
チューブラー・マガジンは現代でのショットガンなどでは一般的な弾倉形式だ。銃を構えたままでも、下部から常に装填出来るショットガンのイメージを持っていると再装填に時間が掛かる、という当時の批判を正しく理解することは出来ないだろう。
二十二年式のチューブラー・マガジンは下部からの弾薬装填は出来ない。ボルトを引き、開かれたエジェクション・ポートから銃身下部のチューブに弾薬を1発づつ装填する。確かにこれでは単発銃並と言われても仕方が無い。
しかし1880年代はMauser M71/84など多くの連発銃がチューブラー・マガジンを採用していた。二十二年式は基本的にKropatchek(クロパチェック)のコピーだ。だからこの再装填の問題は村田銃に限った話ではない。
無煙火薬が実用化したのは1885年、それを使用する銃は、翌年フランスのレベル(Lebel)1886として実用化された。日本陸軍は1887(明治20)年に無煙火薬を使用する連発銃を大至急開発する事を東京砲兵工廠に求めた。開発期間、実質的に1年というスピードで村田経芳はこの二十二年式を開発した。黒色火薬よりはるかに高圧になり弾速が上がる無煙火薬について、じゅうぶんな研究など出来ない。音速を超えるスピードで飛ぶ弾丸は、それに見合った形状が必要になる。しかしチューブラー・マガジンとしたため、bulletの先端形状に制約を受け、フラットポイント、もしくはラウンド・ノーズとせざるをえない。こうするとBallistic Coefficientの値は芳しいものではなくなってしまう。
しかし当時は、BCといった考えはまだ判っていなかった。これが解明されたのは第二次大戦後の話しだ。
村田経芳は、この二十二年式を最後に銃器開発を後進に譲り、明治23(1891)年、少将に昇進、貴族院となった。
村田銃は、有坂大佐の開発した三十年式小銃が採用され配備が進んだのち、海外に売却、もしくは36番散弾銃に改造され民間に安く払い下げられた。
またこれをコピーした銃も狩猟用として製造され、それらは一括して村田銃と総称された。これらの安価な村田銃の存在もあり、今日、村田経芳の開発した十三年式、十八年式、二十二年式等に対する評価はあまり高くない。
しかし、十三年式村田小銃開発までの物語を知れば、村田銃に対する評価は変わるはずだ。村田経芳こそ、近代日本の銃器開発の祖であり、銃を愛する私達の偉大なる先駆者なのだ。
“狙うて候”は600ページを越える大作だ。村田経芳の銃へ捧げた情熱が、この1冊の本の中に凝縮されている。
銃を愛する日本人に、ぜひこの物語を読んで頂きたい。
“狙うて候 銃豪村田経芳の生涯” 東郷隆(りゅう)著 実業之日本社 ¥2,200-

June 10, 2004
by Satoshi Maoka
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