| Miroku Revolver Feb.24, 2006掲載

タイトルとは直接関係しないが、FN, Browning USA, ミロクが共同開発して2004年から市場に供給されたBrowning Cynergy(ブラゥニング・シナジー)。従来のミロク・ショットガンとは異なるlow profile designだ。
慶応3(1867)年、徳川幕府第15代将軍、徳川慶喜は天皇に大政奉還、朝廷は王政復古を宣言、これにより翌年、明治政府が成立した。
新政府は旧幕府勢力を戊辰戦争(1868−1869年)で一掃し、新たな中央集権国家建設を目指した。同時に欧米諸国に追いつくべく軍の近代化を急いだ。
東京砲兵工廠の前身である造兵司が旧水戸邸跡(現在の東京ドームシティ《旧称:後楽園遊園地》)に置かれたのが戊辰戦争終結から2年目の1871(明治4)年の事だ。造兵司は1875(明治8)年、砲兵本廠となり、1879(明治12)年、砲兵工廠条例が制定され東京砲兵工廠と改称された。
翌1880(明治13)年、村田経芳少佐により最初の国産近代軍用銃として13年式小銃が完成する。13年式小銃は口径11mm、ブラックパウダーを使用する単発ボルト・アクションであったが、1887(明治20)年には、スモークレスパウダーを使用し、チューブ・マガジンから給弾する口径8mmの20年式小銃が登場した。1894年〜95年には日清戦争が起こっている。
1896年、更に小口径化した6.5mm弾をクリップによって装填できる 29年式小銃が作られた。その改良型として30年式が登場し、1899年に量産が開始された。
軍用銃は日本軍の近代化のために政府の支援で積極的に開発が進められたが、民間の銃、すなわち猟銃に関しては、ほとんど目立った動きはなかった。
1893年(明治26年)2月、弥勒蔵次は高知県香美郡野市町にて、農業の傍ら猟銃の製造を始めた。民間の銃器製造は、この弥勒の工房を含めてごくわずかだけで、ほとんど家内工業として少量の銃を生産する鉄砲鍛冶的なものだった。
弥勒は昭和9年に、小型並びに大型捕鯨砲の製造を始めている。土佐湾では伝統的に捕鯨が盛んだったことも捕鯨砲を製造した理由だと思われる。この捕鯨砲製造も猟銃と同様で、企業を設立するレベルの事業規模では無かった。
第二次大戦中、国をあげて軍用品の生産が行われたが、それには個人事業的な鉄砲鍛冶をも巻き込むものではなかった。また昭和13年、戦時不要不急の贅沢品として猟銃の輸入並びに製造が禁止され、これが敗戦に至るまで続いた。
第二次大戦後の1946(昭和21)年、株式会社ミロク工作所が設立される。しかしこの時はまだ、占領軍より銃の製造は禁止されていた。
占領政策が終わり、ミロク工作所は昭和26年、通商産業省より猟銃製造事業の許可を受け、再び猟銃および捕鯨砲の製造を開始することになった。この時、ミロク工作所にショットガンの製造を依頼したのが、長い歴史を持つ銃火薬類取扱い商、川口屋林銃砲火薬店である。川口屋はKFCというブランドを作り、ミロクが製造したショットガンを販売した。
昭和20年代後半という時代において、射撃、特にクレー射撃は非常にお金のかかるスポーツであり、ごく一般の市民にはとても手の出せるものでは無かった。
しかし戦後の混乱期に財を成した人達を中心に、クレー射撃の人気が高まっていた。昭和30年代の好景気で、射撃スポーツは一般市民も巻き込んで普及していく。そのため銃器ビジネスは毎年売上を拡大し絶頂期にあった。
ミロク工作所は1960(昭和35)年、捕鯨砲の生産を縮小し、猟銃の製造にシフトしていった。
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ミロクが捕鯨砲から猟銃製造にその主軸を移すきっかけは、欧米で捕鯨に対する反対論が高まったことによる捕鯨の衰退が原因という説がある。しかし1960年当時、捕鯨反対論というものは、ほとんど大きなムーブメントとなっていなかった。下記に1960(昭和35)年から1970(昭和45)年までの日本による鯨の総捕獲数(南極など領海外も含む)を示す。これを見ても、1964年ごろに捕鯨は最盛期を迎えている。
1960年 18,854
1961年 19,891
1962年 21,814
1963年 23,886
1964年 24,080
1965年 24,468
1966年 21,856
1967年 20,049
1968年 20,163
1969年 17,128
1970年 17,047
IWC(国際捕鯨委員会)では、1963年に科学委員会内の小グループから本格的な研究報告が出て以来、科学者の意見に従って鯨の捕獲頭数を減らして資源および種の存続を図る方向性が打ち出された。しかしこの時点で捕鯨を禁止するといった極論に走っていたわけではない。
欧米の多くの国にとって鯨は食用ではなく、油をとるためのものでしかなかった。そして鯨油は、他に代替品が出来ており、この当時、すでに捕鯨の必要性は失われていた。
1972年のストックホルムで開催された国連人間環境会議をきっかけに半捕鯨活動が活発化した。
この会議で、ベトナム戦争におけるアメリカ軍の枯葉剤使用を環境問題としてフィンランドが提案するという情報が事前に流れた。
当時のニクソン政権は、この問題が大きく取り上げられることを避けようと、人々の注目を集める別のテーマを模索したと言われている。
それが捕鯨問題だ。数多くの若者が突如、ストックホルムに集まり反捕鯨運動を始めた。彼らは当時、ヒッピーと呼ばれた。自由と平和を唱える彼らは組織的な活動は似合わない。インターネットなど存在しない当時、突然若者が同じテーマで同時多発的に動き出すことは通常あり得ないのだ。
何らかの大きな力がその裏で働いていたと言われている。鯨という知的生物を殺して食べるという、一部の国でおこなわれている行為を野蛮なものとして糾弾することで、人々の怒りの方向性をそちらに向わせることが目的だったという説だ。
当時の主要捕鯨国はノルウェー、日本、ソ連だった。かくして捕鯨反対のムーブメントは欧米のNGOが主体となり、大きな影響力を今日まで及ぼしている。
鯨肉は日本人にとって、安価で栄養価の高い食料であり、馴染み深いものだった。そして鯨の身体は捨てる部分がないというほど、活用出来るものだ。しかし、捕鯨反対国からの強い抗議行動に負けて、商業捕鯨は中止され、結果的に調査捕鯨のみを継続している。
1960年、ミロクが捕鯨砲から猟銃に、その主軸を移したことは、結果的に正解であった。しかし、それは捕鯨の将来に暗雲が立ち込めたからだという説は間違いで、実際には当時の散弾銃のビジネスが好調であったためだったと思われる。
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1961(昭和36)年、ミロクは生産の一部を輸出に振り分け始めた。そして翌1962年、株式会社ミロク製作所へ社名変更を行っている。
国内市場は拡大していたとしても、その数は知れている。より事業を拡大するには、欧米への展開は必須だ。また1960年の輸入自由化により、外国製品が国内市場に入ってきた。国内市場の競争が激化したことも、ミロクが銃の輸出に踏み切るきっかけとなったのだろう。
川口屋は国内にのみ目を向けていたが、ミロクは世界を目指した。国内での高い評価を背景に、B.C.MIROKUブランドで欧米に向けてショットガンを輸出した。ところが、ミロクのショットガンはさっぱり売れなかった。
第二次大戦終結まで、日本には民間の銃器会社はほとんど無く、民生品としての歴史は浅い。ましてや敗戦国だ。Made in Japanの工業製品が高品質の代名詞になったのはもっと後であり、当時の日本製品の評価は低い。安かろう悪かろう、という時代だ。
銃、特にショットガンは伝統の重さも重要な価値として数えられる。欧米の高級ショットガンを真似したものを、日本の安い人件費で製造して売る、といった商法が受け入れられる世界ではない。
結果としてミロクはCharles Dalyと契約し、Charles Dalyブランドで販売した。それでも製品の販売数はあまり大きなものではなかった。しかし、欧米の市場で勝負することは、メーカーとしてのミロクに大きな刺激を与えることとなった。勤勉で器用な日本人はまもなく欧米の製品に負けない高品質のショットガンを製造する技術を獲得していった。
その結果、1966(昭和41)年にアメリカのブラゥニング(Browning)社との販売契約ならびに技術提携がスタートした。そして1970年にはベルギーのファブリック・ナショナルとの提携も開始された。ミロクのショットガンおよびライフルはブラゥニング・ブランドで世界に向けて供給されるようになったのだ。
一方、1960年代の日本は銃を使った犯罪が繰り返し発生し、また赤軍派などによる銃砲強奪事件等が起こった。その結果、銃刀法が段階的に強化されて、国内の射撃人口は減少していった。
銃砲製造事業は、国内需要だけでは成り立たなくなってしまう。
1973(昭和47)年、販売会社としてニッサンミロクが設立された。それまで国内にはKFCブランドで川口屋林銃砲火薬店が販売していたミロク・ショットガンは、ミロク・ブランドで市場に投入されるようになった。川口屋林銃砲火薬店は、ミロクとの提携解消後、シンガー日鋼製ガスオート・ショットガンの販売に注力した。しかし、ミロクの抜けた穴は大きく、川口屋林銃砲火薬店はやがて銃砲ビジネスから撤退した。
1961年に海外に進出したミロクはショットガンだけでなく、ハンドガンの製造も試みた。それがミロク・リボルバーだ。
1950年代末期から1960年にかけて、新中央工業は自衛隊および警察関係に向けて、ニューナンブ・ピストルを試作している。自衛隊向けに口径9mmのモデルM57A,警察向けに32ACPのモデルM57Bを試作したが、いずれも採用されることはなかった。警察はセミオートマチックよりダブルアクションの小型リボルバーを求めていた。
そこでS&Wチーフ・スペシャルを元に、38S&Wスペシャル5連発のニューナンブ モデルM60リボルバーを製作、これが日本警察に採用された。
ミロクがリボルバーを作り始めたのは、ニューナンブ・リボルバーが制定されたあとだ。いまさら警察市場に向けて売り込んでももはや手遅れだ。
だからミロクは初めから欧米市場をターゲットに自社製リボルバーを輸出し始めた。
新中央工業でもニューナンブ・ピストルの輸出は検討された。試作に終わったM57A及びB、そして制式採用されたM60について英文のカタログが作られた実績がある。
国内には限られた市場しかないことを考えれば、輸出を試みることは当然だ。
実際ニューナンブモデルM60は輸出された。ロングバレル、アジャスタブル・サイト付きのターゲットモデルが作られ、ニューナンブ サクラという商品名が与えられた。
ダイナミート・ノーベル(Dynamit Nobel)社を代理店としてサンプルが送られた。その数わずかに2挺。しかし結果としてサクラの輸出は中止された。その2挺のサンプル品の行方はその後判らなくなった。おそらくヨーロッパのコレクターの手に渡っていると思われるが、表に出てこない。それ以降、ニューナンブは一切輸出されていない。
ミロクのリボルバーというとリバティ・チーフ(Liberty Chief)が有名だ。しかしこれ1種だけが作られたわけではない。

Mark IV, Mark VI, Mark VII, Mark XI, Mark XIIなどが存在するようだ。またMiroku Special Police、EIGと呼ばれたものもある。リバティ・チーフはこの中のMarkVIにあたる。いずれも38Special,または 22LRのリボルバーで銃身長は2”, 2.5”, 3”, 4”、Fixedサイト・モデルもあればadj.サイト・モデルもある。
357Magnumなどの強力なモデルはなく、コンパクトなものだけを作った。サイズ的にはコルトのDフレームに近い。6連シリンダーのものの他、5連モデルも作られた。
シリンダーラッチの形状から、これらがコルトのコピーと思う人は多いだろう。確かにエジェクター・ロッドは先端で保持されていないし、シリンダーは右回転だ。しかし、これらはS&Wダブルアクション・リボルバーに似たメカニズムを持っている。正しくはS&Wを簡略化したメカニズムだ。
余分なものを排した結果がコルトとS&Wの中間的デザインになった。ベースはS&Wのダブルアクションメカニズムだが、不要と思われるものを取り去るために、シリンダーを右回転にしたと思われる。S&Wのように左回転だとシリンダーが回転する方向は常にシリンダーをスイングアウトする方向と一致し、その結果、シリンダーをより強固に固定しないといけなくなる。S&Wはシリンダーロット先端にロックを設けて、この問題を回避した。
スイングアウト・シリンダーのダブルアクション・リボルバーを開発した当初、コルトも左回転シリンダーを採用したが、このシリンダー固定の問題に対し、右回転にすることで対処したという歴史がある。19世紀末の話だ。
ミロクもまたシリンダーを右回転にすることでこの問題を解決した。大昔のコルトと同じである。
コルト風のシリンダーラッチを真似たのも、この形式がもっともシンプルだからだ。
ハンマースプリングはコイルスプリングを採用した。S&Wリボルバーのトリガーフィーリングの良さは、リーフ・スプリングの採用によるところが大きい(J frameを除く)。
S&Wのダブルアクション・リボルバーが装備しているハンマー・ブロックは内蔵されていない。トリガーを引ききったとき以外は、常にリバウンドスライドでハンマーがリバウンドしているが、ハンマーに強烈な打撃が加わったときは、ハンマー先端のファイアリングピンがプライマーを打ち、発射される恐れがないわけではない。
S&Wのメカニズムを流用したが、S&Wの良い部分を無視し、簡略化に努めたといっても良いだろう。これでは良いものが出来るはずはない。
ミロクはリボルバーだけを作ったのではない。セミオートマチック・ピストルも製作し、市場に供給しようとした。32ACPを使用するブラゥニングM1910風のモデルで、ハンマー外装式だ。これはニューナンブM57Bに近いコンセプトだ。違いがあるとすれば、ニューナンブM57Bほどデザインが洗練されておらず、かなり野暮ったいものだった。外装式になったハンマーはリングタイプだ。
1961(昭和36)年9月16日、第二室戸台風が日本を襲った。この台風は死者202名という大きな被害を及ぼしたが、四国にあるミロクもこの台風で工場が損傷した。そして試作中の32口径セミオートマチックピストルの図面が無くなってしまうという事態となった。
それだけが原因ではないだろうが、ミロクは32口径セミオートマチックの製造を中止した。現物は残っていない。画像も極めて不鮮明なものがヨーロッパにあるだけだ。
その他、4連デリンジャーの設計もおこなったらしい。
ミロクがリボルバーを海外に販売していた時期はいつなのだろう。これについて明確な文献が見当たらない。ミロク・リボルバーについて書かれたものを見ても、1960年代に売られた、というかなり曖昧な表現でその販売時期を語っているに過ぎない。
まともな記録が残っていないのは、この銃がSaturday Night Specialに近い扱いだったからだと推測される。Gun DigestにもShooter's Bibleにも載らない。S&W、コルトをコピーした安物、そんなものについて取り上げていれば、いくらページがあっても足りない。
Mirokuブランドで欧米市場に打って出たのは1961年だ。おそらくこの段階でミロク・リボルバーが登場したのではないだろうか。手っ取り早くアメリカで売れるもの、それがリボルバーだった。チーフ・スペシャルとディテクティブを混ぜたようなリボルバーを低価格で米国市場に投入する。当時の為替相場は$1=\360だ。日本で作って輸出すれば、素晴らしく低価格で販売できる。これが当時の読みだったと推測できる。市場には低価格のリボルバーがあるが、どれもいかにも安物といったものばかりだ。これなら負けるはずはないと考えたわけだ。
しかしリボルバービジネスは成功しなかった。ショットガンの販売で契約したCharles Dalyもミロク・リボルバーを扱わなかった。理由はいくつかあるのだろうが、“売れそうもない”、というのが当時の担当者の率直な意見だったのではないだろうか。
この銃を見た瞬間に感じるのはバランスの悪さだ。何がおかしいかと言えば、グリップのデザインだと思う。サイド・プレートに重なるグリップ上部のデザイン処理が悪い。この部分をもっと軽くして、グリップ自体ももっと握り易い形状にすれば、それほど悪いものではないと思う。但し、ハンマー・ブロックは必要だ。これがないと危険な安物だ。
「リバティ・チーフは美しいブルーで、仕上げも丁寧、さすが日本製だ、・・・」といった記述を見ることがある。私がここに載せたリバティ・チーフの写真は、そういった好意的評価をぶち壊すものだ。錆が浮き出ている。確かに丁寧な仕上げのモデルもあったのかもしれない。しかし、フレームのシリンダー下に見えるスクリューの仕上げは何だ。皿ネジで頭の部分にエッジが面取りしていない。仕上げの美しいといわれてる他のリバティ・チーフの写真を見ても、この部分は同様だ。
掲載した写真のリバティ・チーフは、トリガーが微妙に短い。トリガー・ガードの形状も少し違う。グリップフレームのフロント・ストラップ部分にスクリューがねじ込まれているように見える。もしここにスクリューがあるとしたら、それはリーフ・スプリング仕様であることを意味する。S&Wの呼称を使えば、strain screwだ。ダブルアクション・プルを決めるメインスプリングのテンションを調整するネジだ。
リバティ・チーフにリーフ・スプリング仕様があったとすれば、ミロク・リボルバーは製造時期によって、いくつかの仕様があるということになる。推測としては、このリーフ・スプリング仕様は初期型だ。雑な仕上げで安価なリボルバーを作ってみたが、さっぱり売れない。それではということで、多少仕上げを良くしたモデルを投入した。その一方で、調整が面倒なリーフ・スプリングを止めた。
インターネット上ではMiroku Special Policeリボルバーが1967年から1984年にかけて製造販売されたという記述がある。
これはおかしい。1967年はともかく、1984年まで続いたとは思えない。なぜなら日本は武器輸出3原則がある。
武器輸出三原則は、1967年に日本政府が武器の輸出に関して定めた基準で、共産圏諸国、国連決議で武器の輸出を禁止されている国、国際紛争の当事国またはその恐れのある国には武器輸出しない、としたものだ。さらに、1976年、三木内閣は政府統一見解として、三原則対象地域以外の国へも日本は武器を輸出しない、すなわち武器輸出は全面禁止とした。
すなわち1976年以降は、ピストルを輸出できないのだ。ピストルを武器と判断するかどうかは議論の余地があるが、日本の感覚では立派な武器といえるだろう。
ミロクはこのLiberty Chiefを最後にリボルバーの輸出を止めた。武器輸出三原則が原因というより、ビジネスとして軌道に乗らなかったと見るのが妥当だろう。
ミロクは1966年(昭和41年)12月、アメリカのブラゥニング社と販売ならびに技術提携を始めた。おそらくリボルバー製造を止めたのは、この時期だ。売れないリボルバーより、名門ブラゥニング・ブランドでショットガンを供給した方が良い。
結果的にそれは正しかったのだろう。ブラゥニング・ブランドであっても、ミロク・ショットガンの優秀性は広く知られている。
日本で設計、製造されたピストルが、中古品、鹵獲品、戦利品としてではなく、通常の民生品として欧米の市場で販売された例は、このミロク・リボルバーだけだ。法的制限もあるので、おそらく今後も無いだろう。その唯一の例がこの銃だと思うと、かなり寂しい気持ちになる。

またまたタイトルとは直接関係しないミロクSG-1。現在までのところでは、国産唯一のステンレス・ショットガンだ。
Feb.24, 2006
Satoshi Maoka
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