The History of German Police Pistols ドイツ警察ピストル・ヒストリー

Capter 7 Unified Germany 統一ドイツ

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ドイツ統一

 第二次世界大戦が終結すると、ドイツを占領したアメリカをはじめとする資本主義国家と社会主義国家の旧ソビエトの対立が激化し、冷戦が始まった。その結果、占領されたドイツは双方の陣営に分断されてしまう。東西に分割されたドイツではあったが、再統一にむけての動きは当初からあった。
 分断ドイツの再統一には、3つの考え方があった。
 一つは、西側、つまり資本主義国家として統一されるドイツ。二つ目として、ソビエト勢力下の社会主義国家として統一されるドイツ。三つ目が、西側資本主義、東側社会主義のどちらにも属さず、軍事的な力を保有しない中立国、あるいは非同盟国家としての統一ドイツとなる案だった。
 中立国あるいは非同盟国家という案は、ドイツに併合されてドイツの一部として敗戦を迎え、第二次世界大戦後4カ国占領を受けたオーストリアが、1955年に非同盟国家になることで占領を解除され、統一国家として道を歩み始めた例もあり、かならずしも非現実的な案ではなかった。
 だが、地政学的に見ても、構成人口数や工業資産能力の面から見ても、ドイツとオーストリア共和国には差がありすぎ、単純に比較はできない。
 さらに、国際社会が冷戦状態となったため、ヨーロッパの中央部に位置するドイツを、非同盟国家あるいは中立国として統一させるには、周囲の状況が厳しすぎた。

 歴足的にふりかえると、1952年にソビエト政府は、スターリン・ノートと呼ばれる、ドイツ再統一と講和条約の条件をしるした覚書を、ドイツを占領したアメリカ、英国、フランスに送っている。スターリン・ノートには、東側、西側のいずれのブロックにも加わらない中立ドイツと講和条約を結ぼうという提案がしるされていた。
 狡猾なスターリンが、その社会主義ブロックに組み込んだドイツを手放しても良いという提案をなぜ出してきたのか。それは、アメリカ、イギリス、フランスの占領下にある西ドイツが、再軍備する事を阻止することが主目的だったと思われる。軍事的に優位なアメリカが、ヨーロッパに軍を駐留させる理由を失わせる意図があった。
 スターリン・ノートの提案は、当時の西ドイツ主導者だったアデナウアーによって拒絶された。アデナウアーは、西ドイツ単独で国家主権の回復を目指し、1955年に国家主権を回復した。主権を回復した西ドイツは、同時に北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。
 西ドイツと西側資本主義諸国に対抗して、ソビエトは、影響下にある東ヨーロッパ諸国間でNATOと同様な軍事条約であるワルシャワ条約機構を発足させ、東ドイツの国家主権を回復させた。
 西ドイツのアデナウアーは、東西に分割されたドイツの統一をあきらめたわけでなかった。まず、資本主義国家としての西ドイツの主権を回復させて復興を急ぎ、経済的に東ドイツに対して優位に立ってこれを圧倒し、結果的に西ドイツが主導権を握って再統一を目指すことだった。
 しかし,アデナウアーの存命中に、ドイツが再統一されることはなかった。
 西ドイツが急速な経済復興をとげると、東ドイツの経済は追いつめられ、優秀な頭脳や労働力が西側に流出した。頭脳や労働力の流出を防ぐため、1961年8月13日、ベルリンに壁が築かれ、ドイツ再統一が遠のく結果となった。
 ベルリンの壁が築かれた後、東ドイツは、経済を飛躍的に発展させることを目指して“新経済システム”を導入する。社会主義体制下で企業の自主性を認め、労働者各個人ごとの評価に差を認め、報奨制度を設けて勤労意欲を大きくしたのだ。その結果、東ドイツ経済も発展のスピードを早めた。
 だが、ホーネッカーの率いる社会主義統一党(SED)は、計画経済こそ社会主義の基本的な経済体制と位置づけ、新経済システムはあくまで変則的な政策とした。そのため、1970年代末になると、それまで経済成長を促進してきた新経済システムを放棄してしまった。新経済システムによって、東ドイツの経済は発展したといっても、西ドイツの経済に比較すると大きな落差があった。
 1970年代、ウィリー・ブラントに率いられる西ドイツ政府は、“新東方外交”とよばれる外交政策をとった。
 新東方外交は、ソビエトと1970年に武力不行使条約(ボン・モスクワ条約)を結び、ポーランドと相互関係正常化基本条約を結ぶ。1972年になると東ドイツと両ドイツ基本条約を結んだ。
 両ドイツ基本条約により、西ドイツと東ドイツは、互いの領土と独立を承認し、正式な外交関係を結んだ。
 ハルシュタイン・ドクトリンはアデナウアーの時代の基本的原則だ。それは“西ドイツは、旧ソビエトを除き、東ドイツとの国交をもつ国との国交をもたない”というものだった。しかしそれは、この外交政策によって終結し、ヨーロッパ東西間の緊張が緩和され、デタント(融和政策)が進んだ。
 しかし、1979年に、ソビエト軍がアフガニスタンに侵攻したため、東西諸国は、再び冷戦状態となってしまった。
 1980年、アメリカ大統領に選出されたレーガンは、ソビエトに比較すると劣勢だったヨーロッパにおけるアメリカ軍の軍事力を,ソビエトに対等なレベルに上げるべく軍備拡大を推し進めた。
 対するソビエトもアメリカの政策転換に対応し、再び軍拡競争が始まった。
 東西の対立が高まり再び冷戦となると、軍備拡大に伴って軍事費が増大していった。すでに悪化していたソビエト経済は、その軍備費の増大によって、急速に圧迫されることとなった。
 ソビエトの経済の悪化は同時に、ソビエトを核とした社会主義諸国にも経済停滞を起こさせることになった。
 ソビエト共産党書記長となったゴルバチョフは、停滞したソビエト経済を再生さるため、社会主義の改革を目指して自由化政策(ペレストロイカ)を発動させた。
 それに対し、ホーネッカーをはじめとする東ドイツSED(社会主義統一党)指導部は、ソビエトの自由化政策を批判し、従来の計画経済型の社会主義路線を堅持した。東ドイツは、“経済政策と社会政策の統一”をスローガンとしてかかげ、従来型の社会主義政策で工業水準を高め、国民生活を向上させることを目指した。
 このSEDがとった政策は、結果的に国家の財政支出を増大させ、東ドイツ経済を破綻に向かわせてしまった。赤字の補填のため、外国借款は膨れ上がり、これがさらに東ドイツ経済を追いつめていった。
 1989年、社会主義圏ではじめての自由選挙がポーランドでおこなわれた。選挙の結果、”連帯”がポーランド国会議席の大多数を占め、“連帯”主導の内閣が成立し、社会主義圏各国に大きな衝撃を与えた。
 東ドイツもポーランドの自由選挙の結果に衝撃を受けた国の一つだった。ポーランドにおける連帯の勝利によって、東ドイツの市民運動は活発化し、広範で大規模な民主化要求デモが繰り広げられた。
 東ドイツの将来に絶望し、東ドイツから国外に脱出する人々は増加した。そこには若者の姿が目立つ。ハンガリーがオーストリアとの国境を開いた結果、夏期休暇の名目で合法的にハンガリーに行った数多くの東ドイツ国民が、8月以降そこを経由して西ドイツへ脱出した。
 10月になるとホーネッカーは、国内の民主化要求を武力弾圧するため、ソビエト軍の出動を求めたが、ゴルバチョフはこれを拒否した。
 SEDはホーネッカーを解任し、事態の収拾を図ろうとしたが、すでに手遅れだった。
 11月4日、東ドイツで50万人が参加する自由化を要求する大規模なデモがおこなわれ、東ドイツ各地で改革を求める政党やグループが結成される中で、SEDの一党独裁が崩壊する。
 政治的混乱の中、決定の根拠が明らかにならないままで、11月9日に東ドイツ国民の西ドイツ出国が自由化され、東西分断の象徴だった“ベルリンの壁”が開かれた。東ドイツ国民の流出はとどまることを知らず、西ドイツに多数流入した東ドイツ国民によって、西ドイツ経済にも住宅不足、財政負担の増大など大きな影響が出た。
 このような混乱が続くなかで、東西ドイツの通貨同盟が具体化される。90年5月に「通貨・経済・社会同盟創設に関する国家条約」が調印された。
 この条約で、東ドイツの経済主権の放棄と市場経済への完全移行、西ドイツの主導による金融・財政政策の運営などが定められた。7月1日に同条約が発効し、東西両ドイツの経済統一が達成された。
 ついで8月31日に両ドイツ統一条約、9月12日にドイツ最終規定条約が調印された。そして10月3日、東西両ドイツは、第2次世界大戦後の41年間にわたる国家、民族の分断の歴史に終止符をうち、再びひとつの国家となった。

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Feb.23, 2003
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