The History of German Police Pistols Chapter 6-1
東ドイツ ドイツ民主共和国 DDR

6-1 page1 : 東ドイツの興亡
6-2 page2 : 1950年代、CZ38, CZ27, P1001-0, P-08
6-3 page3 : 1960年代-1980年代 マカロフ, CZ45, Z, スチェッキン, PSM

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The History of German Police Pistols Chapter 6 DDR 東ドイツ

Page 6-1 東ドイツの興亡

 第二次世界大戦に敗戦し東西に分裂したドイツの西側、西ドイツ(BRD)の警察の武装に関して、3回にわたって記述してきた。今回は東側、東ドイツ(DDR)で使用された警察ピストルについて解説する。
 連合国軍として共にナチス・ドイツと戦ったアメリカと旧ソビエトは、第二次世界大戦が終結すると、政治体制の違いから冷戦状態に突入してゆく。冷戦激化の結果、アメリカを初めとする資本主義国に後押しされて1949年5月にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が誕生した。
 一方、旧ソビエト占領地域だったドイツ東地域は、旧ソビエトの後押しで同じ年の10月、ドイツ民主共和国(東ドイツ)として独立した。
 第二次世界大戦敗戦から4年、ドイツは、アメリカ、イギリス、フランスの3カ国占領地域と旧ソビエト占領地区の2つに別れ分裂国家となったわけだ。
 西ドイツは、1949年の建国以来K.アデナウアーが1963年まで政治的に主導した。彼は西ドイツと西側諸国の協力関係を積極的に推し進め、西ドイツ自体のおどろくべき経済発展を実現させ、これは「経済の奇跡」と呼ばれた。
 1950年から10年間で、西ドイツの工業生産は、実質的に3倍となった。その結果、西ドイツ経済は西ヨーロッパのみならず、世界経済の中でも重要な位置を占めるまでに成長した。
 西ドイツが、第二次世界大戦後の短期間で驚異的な経済発展を遂げた裏には、社会主義政権を嫌った東ドイツや東ヨーロッパ諸国から西ドイツに流入した質の高い労働力も少なからず影響していた。
 東ヨーロッパ諸国がソビエトの影響で次々と社会主義国家化してゆく過程で、東ヨーロッパに移住していた多くのドイツ人が追放され、西ドイツに流れ込んだ。西ドイツに流入したドイツ系東ヨーロッパ難民が、西ドイツ経済の発展に大きく寄与したのだ。
 戦後、素早く経済復興をとげた西ドイツと比べ、社会主義体勢に組み込まれた東ドイツは、マーシャル・プランを拒絶し経済復興は遅れ、東西ドイツの経済格差が目立つようになった。
 東ドイツは、西ドイツへ流出する労働者、とくに優秀な頭脳労働者の流出を防ぐため、1961年8月、国境を閉鎖し東西ベルリンの間に壁を構築した。これにより、西ドイツと東ドイツは、完全な分断国家となった。
 西ドイツに対する東ドイツや東ヨーロッパからの労働力の流入は途絶えたが、代わって西ヨーロッパで比較的貧しかったイタリア、スペイン、ギリシャなどから労働力が供給された。のちにはトルコやユーゴスラビアから流入する期間限定労働移民(ガスト・アルバイター)の労働力が、成長する西ドイツを支えた。
 旧ソビエト占領地区だった東ドイツの社会主義化は、ソビエトが占領した直後から始まっていた。有力な工業施設は国有化され、大土地所有者の土地は没収され農民に配分された。政治活動の自由には制限が加えられ、社会主義統一党(SED)が結成された。
 東西ドイツの分裂が確立された後、東ドイツは、社会主義国家建設を本格化させ、旧ソビエト式の重工業発展を中心にすえた経済計画が進められた。そして農村は、社会主義の理念で集団化される。
 しかし、東ドイツがとった集団農業政策は、保守的な農民にきらわれ東ドイツ農民の西ドイツへの逃亡を増大させる結果となった。農民の逃亡により、東ドイツの農業は衰退し、食糧不足を引き起こすことにもなった。
 重工業のみを重視する東ドイツの政策は、一般の生活消費財の慢性的な不足ももたらした。
 社会主義統一党がうちだす政策の失敗に対して、東ベルリンでは、1953年6月17日に労働者を中心とした大規模なデモとストライキが発生した。この大ストライキは、6月17日事件と呼ばれている。
 6月17日事件でストライキに立ち上がった民衆は、社会主義に対し批判的で、民主主義の回復、経済改革、ドイツ統一、自由選挙などを求めて反旗をひるがえした。
 しかし、民衆の要求に対して東ドイツ政府は、ソビエト軍を介入させ、力でストライキとデモを押しつぶした。
 この経験から、東ドイツ政府は、強力な政治警察の情報網の完備と、実効能力の必要性を痛感し、強力な警察機構の構築に着手した。
 6月17日事件以降1989年まで、強力な警察機構を完成させた社会主義統一党に対する民衆の大規模な反乱は発生しなかった。東ドイツ国民は、強力な警察機構とソビエトの東ドイツ駐留が存在する限り、東ドイツの民主的変革の可能性はありえず、社会主義統一党への抵抗が失敗に終わることを身をもって理解した。
 だが、この事件のあと、東ドイツ政府は、国民生活の改善にも配慮するようになり、以前より東ドイツの生活レベルが向上した。
 それでも東ドイツ市民の生活レベルは、西ドイツの生活レベルと比べれば、はるかに劣っており、自由と豊かさを求めて西ドイツへ逃亡する国民が後を絶たなかった。
 労働者、とくに頭脳労働者や年の若い労働者の西ドイツ逃亡に手を焼いた社会主義統一党は、1961年8月に東西ドイツの国境を遮断し、鉄条網で物理的な国境線を建設した。それまで東西の往来に制約が少なかったベルリン地区にも、鉄条網とコンクリート・ブロックで壁が築かれた。これがベルリンの壁だ。
 東西ドイツを分断する国境の封鎖と、東西ベルリンを分断するベルリンの壁の建設によって、東ドイツ国民は逃げ場を失い、閉鎖された国家の中で社会主義建設を推し進めるか、反逆者となって刑務所暮らしをするかの選択しか残されていなかった。
 多くの東ドイツ市民は前者を選択し、東ドイツは、東ヨーロッパで第一の工業国となっていく。
 ソビエトにとって東ドイツは、社会主義化したといっても過去に自国を侵略した敵国であることに変わりなく、ソビエトは東ドイツを完全に信用することはなかった。
 しかし、同時に東ドイツは、地政学上、旧ソビエトや東ヨーロッパの社会主義国にとって、西側資本主義国家に対する重要な橋頭堡でもあった。
 ナチス時代のドイツは警察国家だった。第二次世界大戦が終わり、ソビエトの支配下におかれた東ドイツは、再び反社会主義を警戒する警察国家になった。ナチ党が社会主義統一党に入れ替わっただけだ。ソビエトは、東ドイツを厳しく管理することで、再びソビエトに牙を剥くことを防ごうとした。
 第二次世界大戦の混乱を抜け出し工業国になった東ドイツに対して、自前で戦車や戦闘機の開発や生産を禁止した。小型の重機関銃の開発すら認められなかったことから、いかにソビエトがドイツの軍事生産能力を警戒していたかがわかる。
 東ドイツの警察は、複雑で、かつ多くの警察機構が複合的に活動していた。
 最も強力な権力をもち、政府と直結していたのが情報機関でもあったシュターツ・ジッヒャーハイト・ポリッツァイ(国家治安警察)、通称、シュタージだ。
 東ドイツと西ドイツを分断する長大な国境線を護るためには、西ドイツのブンデス・グレンツ・シュッツ(国境警備隊)に対応するグレンツ・ポリッツァイ(国境警察)通称ゲルポが組織された。
 一般民間人と直接接触していたのが、ボポ(VOPO)と呼ばれるフォルクス・ポリッツァイ(Volks Polizei)だった。
 フォルクス・ポリッツァイは、その任務から、ベライトシャフト・ポリッツァイ(Bereitschaft Polizei:機動警察)、シュッツ・ポリッツァイ(Schutz Polizei:市民警察)、ベトリーブス・シュッツ(Betriebs schutz:重要拠点警備警察)、バーン・ポリッツァイ(Bahnpolizei:鉄道警察)などによって構成されている。
 東ドイツの警察機構は、西ドイツのような州警察単位ではなく、国家を中心とした全国統一警察機構として警察活動がおこなわれていた。
 これらの東ドイツの警察組織のなかで、国家保安省の直轄するシュターツ・ジッヒャーハイト・ポリッツァイ(Staatssicherheit)、通称シュタージは、普通の警察機構と異なった存在だった。
 シュタージは、いわゆる秘密警察であり、また諜報機関でもあった。東ベルリン・ノルマンネン・シュトラーセ22番地に本部をおくシュタージは、ソ運の諜報機関KGB(カー・ゲー・ベー)を手本にして東ドイツに組織された機関だった。
 社会主義統一党中央の決議決定を実行する執行機関で、党書記長、地方党機関の指示に服従する機関だった。
 シュタージの活動範囲は、国内の反体制分子を取り締まる東ドイツ国内の活動にとどまらず、海外での諜報活動や特務活動をおこなう2つの柱から成リ立っていた。
 ドイツ統一後の調査によれば、シュタージが東ドイツ国内の反体制分子監視によって得た情報は600万人分にのぼり、その報告書を並べると178キロメートルの長さに及ぶほどだった。統一以前、東ドイツ国民の10名にひとりは、不満分子として警察の監視対象となっていた。
 監視対象となっていた東ドイツ国民は、党や国の方針にに対して不満をもっているというレベルから、宗教関係者、反体制活動を現実におこなっている人物まで幅があった。
 シュタージは、彼らを監視し、必要なときには逮捕収監した。シュタージに協力する内通者(コレボレーター)の人数も普通ではなく、国民の10人に1人という高い割合だった。
 あまりに多い内通者が存在していたため、仲間だけだと思い不用意に党や国家に対する不満をもらすと、それが。シュタージに密告されてしまうことも稀でなかった。シュタージに通報されると不満分子に分類されて、監視対象となるシステムが確立していた。
 不満分子として分類された人物の中から、シュタージの脅迫を受けて密告者になる例も少なくなく、国民の中に幅広く密告者が散らばることになった。統一後、夫婦間で一方が密告者だったことが明らかになる悲劇さえおこった。
 東ドイツは、“おびえの構造”を作りだし、国家と体制を維持することを第一優先事項にした。1980年代になると、おびえの構造に絶望した多くの東ドイツの若者が国を捨て、ハンガリーやチェコスロバキア経由で西ドイツに逃げ出していった。やがて、若者が体制の絶望して国を捨てる動きは加速され、結果的に東ドイツの崩壊を早めることとなった。強力な警察機構では、なだれのような歴史の動きを止めることはできなかった。

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