Chapter 4: テロの嵐

4-1 Page1 : ミュンヘン・オリンピック・テロ事件、ドイツにおける反政府活動
4-2 Page2 : ドイツ警察武装強化
4-3 Page3 : Walther PP Super, SIG Sauer P230

ミュンヘン・オリンピック・テロ事件

 近代オリンピック思想「オリンピズム」は、人間の調和のとれた発育にスポーツを役立て、スポーツをつうじて人間の尊厳を重視する平和な社会の成立を目的としている。
 したがって,近代オリンピックは単なるスポーツの祭典ではなく、スポーツによって世界平和を実現することを理想とするものだ。政治体制や宗教の違い、国家間の紛争を乗り越えた平和の祭典として近代オリンピックはスタートした。
 しかし、現実社会のオリンピックは、必ずしもその気高い精神にそっておこなわれてきたわけでなかった。
 ドイツの独裁者ヒットラーは、1936年にベルリンでおこなわれたオリンピック大会を、ドイツの国威発揚のために最大限に利用した。
 第二次世界大戦後に再開されたオリンピックは、このベルリン・オリンピックの悪き前例の影響を強く受けて、もっぱら国家の威信をあらわす場として利用されるようになった。国に金メダルをもたらし得る競技者に多額の報奨金を与え、国費で競技者を育成する国が現れる。メダルの数はその国の国力を表すというわけだ。
 近代オリンピックは、スポーツの祭典というより政治の駆引きの舞台となってしまった。アフガニスタン侵攻に伴うモスクワ・オリンピックのボイコットなどがその好例だ。またオリンピックの開催は、新興国にとって、世界の一流国の仲間入りするための大きな足掛かりとしても利用された。
 競技者個人としても、オリンピックに勝つことで、以後の経済的成功が約束されるところから、オリンピックを利用する競技者さえ登場した。全世界の注目を集めるイベントとして、近代オリンピックは国家と個人を巻き込んで肥大化していった。
 加えて近年、商業主義が急速に台頭したため、オリンピックは大企業にとって、世界に向けての広告塔と位置付けられるようになる。オリンピック組織委員会も、放送放映権やオフィシャル・スポンサーからの莫大な利権をめぐって堕落・腐敗した。もはやオリンピックはスポーツの祭典ではなく、莫大な金額が動くビジネスの場になってしまった。
 そして,テロリストにとってもオリンピックは、世界に向けて自らの存在と政治宣伝をおこなう最大の機会となる。
 独裁者ヒットラーの政治宣伝に利用されたベルリン・オリンピックから36年経過した1972年、民主主義が成熟した新生ドイツをアピールすべく、西ドイツ ミュンヘンでオリンピックが開催された。
 だが、ドイツの思いとは裏腹に、ミュンヘン・オリンピックは、近代オリンピック史上最大の悲劇の舞台と化してしまった。
 ミュンヘン・オリンピックが開かれた当時、イスラエルは、パレスチナや周辺のアラブ諸国と激しく対立していた。その対立から、中東を中心にして多くのテロ事件が発生していた。
 1972年5月30日、パレスチナの独立を求めるPFLPと連帯した日本赤軍3名は、イスラエルのテルアビブのロッド空港で乱射テロを起こし、27人の犠牲者を出した。空港警備兵がただちに応戦し、テロリスト2名が自爆、岡本公三が逮捕された。
 このテロは、事件の3週間前にパレスチナ・ゲリラが起こしたサベナ航空571便ハイジャックが失敗したことの報復としておこなわれた。ハイジャックされた571便に突入したイスラエル特殊部隊“サエレト”が、ハイジャック犯のパレスチナ人を殲滅したのだった。このイスラエルの反撃に対する報復として,ロッド空港乱射テロは計画されたという。
 ロッド空港乱射テロに対する報復として、イスラエルはPFLPのスポークスマン・ガッサン・カナファーニを郵便爆弾で暗殺、幹部のバッサム・アブ・シェリフに重傷を負わせた。
 PFLPは、イスラエルによる幹部暗殺の報復として、ミュンヘン・オリンピックのイスラエル選手団の襲撃を計画し、アラファト議長率いるPLOとパレスチナ・ゲリラ“黒い9月”を組織した。

 9月5日、イスラエル選手宿舎に侵入した“黒い9月”のテロリスト7名は、イスラエル選手団のレスリング・コーチとウェイト・リフティングの選手2名をただちに射殺し、選手とコーチ9名を人質として拘束した。
 “黒い9月”は、人質にしたイスラエル選手とコーチと交換に、イスラエルの刑務所に拘留されている256名のパレスチナ人の釈放を要求した。イスラエルのメイア首相は、この要求を拒否、西ドイツ政府にイスラエル特殊部隊“サエレト”を送り込み事件を解決する申し入れをした。しかし、西ドイツ政府は、イスラエルの申し出を拒否、グレンツ・シュッツと警察による事件解決を決定した。
 グレンツ・シュッツと警察は、テロリストが人質を連れてオリンピック村を出てヘリコプターに乗り移る際、テロリストを狙撃する作戦を立てた。だが、狙撃班は、暗くなった乗り換え地点で、ヘリコプターに乗り移る7人のテロリストを同時に狙撃することに失敗した。
 生き残った3名のテロリストは、手榴弾を2機のヘリコプターに投げ込み、人質のイスラエル人9名とドイツ人のヘリコプター・パイロット全員を殺してしまった。
 このテロ事件により,ミュンヘン・オリンピックは中断を余儀なくされ、24時間後にメイン・スタジアムで追悼式典がおこなわれた。引退を目前にしたIOCのブランデージ会長は、テロに屈しない・オリンピックを主張し、オリンピックが再開された。しかし、ミュンヘン・オリンピックは、もっとも血塗られたオリンピック大会として記憶されることになった。
 ドイツ警察によって逮捕され生き残った3名のテロリストは、“黒い9月”によって10月29日にハイジャックされたルフトハンザ615便の乗客人質と交換に釈放されてしまった。
 イスラエルは、報復としてミュンヘン・オリンピック襲撃計画に関わった“黒い9月”のテロリスト全員を追跡し、暗殺する計画を実行に移す。レバノンのベイルートなどの中近東諸国に潜伏するテロリストだけでなく、ヨーロッパ各国でも暗殺を実行。作戦は、10カ月間継続されて12人が暗殺された。ミュンヘン・オリンピック襲撃から18年と3ヶ月が経過した1991年、事件の首謀者のひとりでPLOの軍事部門責任者アブ・イヤドが暗殺され、ミュンヘン・オリンピック襲撃事件に関わったテロリストは全員死亡した。

 ドイツ政府は、この一連の事件をきっかけとして、グレンツ・シュッツの中に、対テロ専従部隊のグレンツ・シュッツ・グルッペ9(GSG9)を創設することになる。
 ドイツ政府が対テロ専従部隊を創設する決定をくだした裏には、ミュンヘン・オリンピックでのテロ事件だけでなく、当時、西ヨーロッパで続発していた反体制テロに対処しなくてはならない差し迫った理由もあった。

ドイツにおける反政府活動

 1960年代、西側諸国の学生の間でベトナム戦争に対する反戦運動が広がった。反戦のデモ行進や集会から、一部の学生を中心として単なる反戦運動だけでなく、さらに先鋭化した反帝国主義、反資本主義、反米をスローガンに掲げた政治性の高いグループが形成されていった。
 西ドイツでは、1968年にドイツ赤軍(RAF:Rote Armee Fraktion)が組織された。このグループは、アンドレアス・バーダー(AndreasBaader)とウルリケ・マインホフ(Ulrike Meinhof)が中心となって組織されたところから、はじめバーダー・マインホフ・グルッペ(Baader Meinhof Grope)と呼ばれていた。その後、ドイツ語でドイツ赤軍を意味するRote Armee Fraktion(RAF)と呼ばれるようになった。
 彼らの政治主張は反帝国主義で、テロも辞さない広範な反体制活動を通じ、西側資本主義を打倒し、マルクス主義による世界革命を目指していた。
 1970年代になると、数名のメンバーが中近東でパレスチナ過激派によって戦闘訓練を受けた。ドイツ赤軍(RAF)とパレスチナ過激派を結びつけたのが、南アメリカ生まれの有名なテロリストのカルロスだった。パレスチナ過激派によって訓練を受けたことにより、ドイツ赤軍(RAF)は、専門的なテロ技術を獲得し、ドイツ国内で本格的な爆弾テロと暗殺を実行するようになった。
 ドイツ赤軍(RAF)が主なターゲットにしたのは、西ドイツの政府公共施設、政府関係者、政界関係者、法曹関係者、西ドイツ大企業とくに軍需産業幹部、それに西ドイツに駐留するアメリカ軍だった。 テロ活動には、ピストル、サブ・マシンガン、アサルト・ライフルから手榴弾や対戦車ロケット・ランチャーRPG7などの重火器まで、あらゆる武器が使用された。加えて高度な技術で改良された爆発物も彼らのよって製造、使用された。

ドイツ赤軍(RAF)によっておこなわれた主要なテロ事件は以下のようになる。

1972年5月: ドイツ最高裁判事の車を爆破。フランクフルトのアメリカ軍将校クラブを爆破。ハイデルベルクのアメリカ軍ヨーロッパ総司令部を爆破。

1974年11月: 西ドイツ最高裁裁判長ギュンター・フォン・ドレンクマンを暗殺。

1975年2月: 西ドイツ政治家2名を誘拐し、交換に6名のテロリストの釈放を要求。

1977年4月: 西ドイツ連邦検事を暗殺。

1977年9月: 西ドイツの産業連盟・ドイツ経営者連盟の会長ハンス・マーティン・シュライヤーを誘拐し、獄中のアンドレアス・バーダーらの釈放と身代金1,500万ドルを要求。ドイツ連邦政府はこの要求を拒否。
1977年10月:ルフトハンザ機をハイジャックし、シュライヤーとバーダーとの交換をさらに迫る。これに対し、ドイツ連邦政府は特殊部隊GSG9を派遣、ソマリアのモガジシォに着陸したハイジャック機を急襲。ハイジャック犯3名を射殺、1名を逮捕、乗客人質全員を救出した。ドイツで誘拐されていたシュライヤーは、報復として暗殺された。

1979年6月: NATO総司令官アレクサンダー・ヘイグを暗殺の目的で橋を爆破、失敗。

1981年8月: ラムシュタイン・アメリカ空軍司令部を爆破。

1981年9月: ヨーロッパ派遣アメリカ軍指揮官の車を対戦車ロケット・ランチャーRPG7で狙撃。車が発進したため失敗。

1984年12月: ボンのフランス大使館爆破。NATOスクールを爆破。

1985年1月: フランクフルトのアメリカ執務長官宅、及びハイデルベルグのアメリカ空軍飛行場に対し火炎瓶攻撃。同時に西ドイツ国内の多数の政府関係施設を火炎瓶攻撃。

1985年2月: ドイツの実業家エルンスト・ツィンマーマンの自宅を狙撃、暗殺。

1985年3月: ドルトムンドのデパートを爆破。

1985年8月: アメリカ軍関係者を殺害しIDカードを奪い、ラインマイン空軍基地に自動車爆弾を仕掛け、爆破。

1986年4月: NATO燃料パイプラインを爆破

1986年5月: アメリカ軍燃料供給ステーションを破壊。2台のトラックも爆破させ1,000ガロンの燃料を焼失させる。

1986年7月: ジーメンス社研究所所長カール・ハインツ・ベッカート暗殺

1986年10月: ドイツ外務省政治局長ゲロルド・フォン・ブラウンミュール暗殺

 これら多数のドイツ赤軍(RAF)によるテロ事件では、対テロ部隊やグレンツ・シュッツだけでなく、一般警察官もターゲットとなり犠牲者が出た。

                  

Chapter 4: テロの嵐

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