3-1 Page1: 東西分裂、Manurhin Walther PP, PPK、FN M1910, M1922
3-2 Page2: MAB Model D, Walther PP, PPK、BKA, BGS
3-3 Page3: SIG P210-4
3-4 Page4: Walther P-1, Heckler & Koch 4

東西分裂
 1945年6月5日、ドイツが降伏した直後にアメリカ、イギリス、フランス、ソビエトの4カ国政府は、共同宣言を発表した。その中で、ドイツの完全な武装解除と、非軍事化をおこなうことを明らかにしている。共同宣言では、ドイツの保有するすべての武器や弾薬、そしてそれらの生産施設を、連合国側が自由に処分、あるいは破壊できることとなっていた。
 しかし、ヨーロッパやアジアの戦後の体制に関して、ドイツ占領西側諸国とソビエトの協力関係が破綻し、対立が鮮明となった。1949年4月4日、西側諸国は、共同防衛体勢の北大西洋条約機構(NATO)を設立した。同年、占領されていたドイツは、東ドイツ、西ドイツの2つの分断国家として再独立する。
 1949年の時点で、東西ドイツは、ともに非武装の国家だった。しかし、ソビエトと西側のアジアにおける最前線だった朝鮮半島で、1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、西ドイツの再軍備に関する議論が始められた。ソビエトや急速に社会主義化していっていた東ヨーロッパ諸国に対して、西ドイツは地政学的に、アジアの朝鮮半島と同じような重要な位置を占めていたためだった。
 1955年西ドイツは、議論を重ねた結果、主権を回復し、同時に再軍備することになった。西ドイツは、ただちにNATOに加盟し、ブンデスベア(BW:連邦国防軍)を創設、ソビエトや東ヨーロッパの社会主義諸国に対する最前線を担うことになった。
 他方、元ソビエト占領地区の東ドイツでも、1952年5月にナチョナール・フォルクス・アーミー(NVA:国家人民軍)と名付けられた軍隊が創設された。
 ソビエトと東ヨーロッパ諸国は、西側のNATOに対抗して、軍事同盟のワルシャワ条約機構(ワルシャワ・パクト)を創設する。東ドイツも1956年に、ワルシャワ条約統合軍に参加した。
 ナチスの戦争犯罪を裁く戦争犯罪裁判は、1945年11月に始まった。総数600万人ともいわれるユダヤ人絶滅作戦ホロコーストをはじめとする、数々の人道に対する罪を裁くニュールンベルグ国際軍事裁判(UMT)と、その継続裁判のニュールンベルグ軍事裁判(NMT)は,1949年4月まで続けられた。
 ニュールンベルグ裁判では、単に第二次世界大戦の戦争責任と戦争犯罪にとどまらず、戦争以前のユダヤ人迫害と敵対者に対する政治的な弾圧行為も、人道に対する罪として裁判の対象とされた。
 ニュールンベルグ裁判と並行し、占領国の決定にもとづくドイツ人の分類が始められた。占領地域の全ドイツ人を、戦争以前からの行動を調査して、違法行為なしの無罪から重罪までの5段階に分類した。違法行為があったと判断されると、重労働や公職追放などの処分がくだされた。新生ドイツの非ナチ化と民主主義は、連合国による強制によってドイツにもたらされたのである。
 1949年、ベルリンを除く、ほかのドイツ全土での占領政策が終了した。
 アメリカとソビエトの対立という新たな冷戦構造の中で、部分的にナチス関係者の復権もおこなわれた。たとえば、反ユダヤ人法「ニュールンベルグ法」の起草者のひとりだったハンス・グロプケは,西ドイツ政府の内閣官房次官となり、政治舞台に復帰した。
 かつてのゲシュタポや軍情報部アブベアの要員の中には、戦犯として裁かれることなく、OSS(後のCIA)に情報部員として採用された者もいた。ソビエトや東ヨーロッパに自前の情報ネット・ワークをもっていなかったアメリカにとって、彼らドイツ人情報関係者達の持っていた東ヨーロッパ内の情報ネット・ワークは、重要な資産だったからである。
 ソビエトの占領地域での、旧ナチス関係者の追放は、西側占領地域よりも徹底しておこなわれたと伝えられる。
 終戦当時、ソビエトが占領した地域には、約150万人ほどのナチス関係者がいた。ソビエト政府は、占領と同時に、元ナチス関係者を政治や経済の分野から追放し、かわりにドイツ共産党(KDP)の党員を、それらポストに任命した。つまり、ソビエト政府は、占領地域の非ナチス化を、共産党の支配体制確立の手段として、たくみに利用したのだった。       

マニューリン(Manurhin)ワルサー・モデルPP、モデルPPKピストル
 戦後、ソビエト占領地域に組み込まれたツェラ・メリスから、カール・ワルサーが西側占領地区に脱出できたのは、アメリカのOSSの手助けがあったためだと信じられている。アメリカは、ワルサーの小火器開発技術、とくにワルサー社が手がけたオートマチック・ライフルのノウハウに大きな関心を寄せていたのだ。
 1950年,カール・ワルサーは、カール・ワルサー・スポーツバッフェンファブリクGmbHを、バートブルッテンベルグとバイエルンの州境の町ウルムに新たに創設した。
 しかし、1950年当時、ドイツで火薬を使用する銃器の製造は、ドイツ非武装化の一環として、まだ許可されていなかった。
 第二次世界大戦中、ドイツの占領を受け、大きな被害を出したフランスは、警察の武装用として、ワルサー・モデルPPの採用を検討した。そのため、フランスのマニューリン社(Manurhin:Manufacture Demachines Du Maut-rhin)は、ワルサー・モデルPPピストルのライセンス生産を始めることにした。マニューリン社とカール・ワルサー社との間でライセンス生産の契約が締結され、1950年に、マニューリン社によってフランス製ワルサー・モデルPPピストルと、モデルPPKピストルの製造が始められた。
 ワルサー・モデルPPKは、再生産にあたって小改良が加えられ、スライド前部の傾斜がゆるやかにされ、フレーム後部を延長した。
 マニューリン社製のモデルPPピストルやモデルPPKピストルは、フランス警察に納入されただけでなく、ドイツにも輸入されて、ドイツの警察官や、後に西ドイツ軍はによっても使用されることになった。
 ワルサー社とマニュリーン社との関係は、ワルサー社がドイツ・ウルムの自社工場で火薬銃の生産が開始された以降も長く継続された。
 フランスにおけるワルサー社製品のライセンス生産は、西ドイツにとっても思わぬ利益をもたらした。
 西ベルリンは特殊な地域で、ここで勤務するグレンツ・シュッツ(国境警備隊)や税関、警察など西ドイツ公務員の武装用に、西ドイツ製の武器を持込むことが禁止されていた。ワルサー社は、フランスのマニュリーン社に発注し、ワルサー・モデルPPピストルやモデルPPKピストルだけでなく、ワルサー・モデルP38ピストルや、ワルサー・モデルMPKサブ・マシンガンなども組み立てさせた。これらの、Made in Franceの刻印を打たれた銃器類は、合法的に西ベルリンへ送り込むことが可能だった。
 フランス・マニュリーン社とワルサー社の深い提携が解消されたのは、1980年代末の事だ。ワルサー社がウマレックス社に買収されたためだった。
 第二次世界大戦後、ワルサー社は、フランスのマニュリーンのほかにも、スイスのヘメリー社(Hammerli)ともライセンス生産の契約を結んでいる。スイス・へメリー社は、戦前にワルサー社がオリンピック射撃競技用として設計・生産したオリンピア・ピストル(Olympia Pistol)を、ヘメリー・ワルサー・オリンピア・ピストル(Hammerli Walther Olympia Pistol)モデル200とモデル203の名称でライセンス生産した。

ブラウニング(ブローニング)モデル1910ピストル、モデル1922ピストル
 第二次世界大戦中の1940年、ベルギーを占領したドイツ軍は、ベルギー・アースタル(ハースタル)のFN社工場を接収、FNモデル1935ハイ・パワー(Hi-Power)ピストルをドイツ軍向けに製作させ、P640(b)のドイツ軍制式兵器名をつけて使用した。その他にもFN社では、FNモデル1910/22ピストルやFNモデル1910ピストルが、ドイツ軍向けに生産された。戦争末期には、FN社によるワルサー・モデルP38の生産もおこなわれた。
 ドイツ軍のために兵器を製造していたところから、ベルギーFN社は、連合国空軍の爆撃対象にリスト・アップされたが、労働者の居住地域とせまりすぎていたため、爆撃をおこなわない決定がくだされた。
 連合国軍がせまった1944年8月に、ドイツ協力者のベルギー人アレキサンドル・ガロピンによって、多くの工作機械がFN社から持ち出だされた。さらに、ドイツが撤退した後の1944年11月から1945年2月までの期間に、FN社で連合国軍のための兵器生産がおこなわれること恐れたドイツは、V1ロケットによるFN社工場の爆撃をおこない、FN工場に大きな被害を与えた。そのため、FN社が本格的な生産を再開できたのは、1947年になってからだった。

 添付画像のFNモデル1922ピストルは、ベルギーが1944年に開放された後に製造された製品である。
 FNモデル1910ピストルやモデル1922ピストルの戦後生産型の見分け方の一つは、グリップ部分にある。グリップ・パネルの上部にあるFNのロゴ(飾り文字)が、戦前モデルでは、太く、中央部分でが盛り上がっている。他方、典型的な戦後型では、FNのロゴが平らで、周囲の楕円が太く盛り上がっている。また、FNのロゴ文字も、戦後型は戦前型に比べて細い。
 戦前型のグリップは、最も初期には牛の角をもちいていた。そのため、経時変化によって脱色し、現在ではちょっと茶色っぽくなっているものもある。また、保存状態によっては虫に食べられてしまうこともあった。その後、グリップ・パネル素材は、製造が容易で、経時変化しにくいエボナイトに代わった。戦後型のグリップ・パネルは、始めエボナイト製が継続して使用されたが、後にプラスチック製となった。
 貼付画像のFNモデル1922ピストルには、BahnpolizeiU.S.Zoneの刻印が打たれている。この刻印は、このピストルが、アメリカ占領地域の鉄道警察で使用されたことを示している。


左:戦前の牛角グリップ・パネル。部分的に虫食い状態になっている。中:エボナイト・グリップ・パネル。右:戦後型プラスチック・グリップ・パネル。

 このピストルは、ドイツが占領されていた時代に使用を開始されたものだが、その後も長く使用され続けた。占領時代に支給された事から、本来なら前章にて紹介すべきFNモデル1910ピストルやモデル1922ピストルではあるが、占領終了後も継続して使用されたところから、この章に載せている。
 占領期間中のドイツ警察の武装用ピストルは、占領軍が支給していた。しかし、占領政策が終了してドイツが国家として再生した後は、ドイツ警察は、自ら武装用のピストルを調達する必要があった。
 戦後の混乱期の治安維持のため、緊急処置として占領軍から支給されたピストルは、種類も、また口径さえも統一されていない雑多なものだった。警察武装は、ひとまずの必要量が確保できていたものの、それらのピストルの多くは使い古しの中古銃だった。
 警察が新規にピストルを調達しようとしても、当時ドイツ国内ではピストルの生産が認められていなかった。
 そこで、ドイツは、近隣諸国からピストルを輸入することになった。その際、第二次世界大戦中、ドイツが被害を与えた国が、戦後賠償の一環としてピストル購入の対象国に選択された。ベルギーFN社は、そういう政治的な配慮もあって、ピストルを供給することになった。
 ブラウニングモデル1910ピストル、モデル1922ピストルは、ともに7.65mm口径のシングル・アクションピストルで、高い完成度を持っていた。戦時中ドイツ軍にも納入されていたところから、ドイツ人にもなじみ深く、購入の対象として選ばれた。
 ブラウニングモデル1910ピストル、モデル1922ピストルは、まったく同じメカニズムが組み込まれた、実にシンプルで合理的な設計のピストルだ。
 ストライカー撃発方式がとられ、ストライカーを保持するシア、その動きをコントロールするグリップ・セフティ、グリップ・セフティをロックするマニュアル・セフティ、さらに、マガジンをピストルから抜き取ると、トリガーを引けなくするマガジン・セフティも組み込まれた。FNモデル1910ピストルやモデル1922ピストルは、ダブル・アクション・トリガーを組み込んだワルサーモデルPPピストルやモデルPPKピストルが登場するまで、ピストルの中で最高の安全機能を備えたモデルだった。
 グリップは、やや小さいが握りやすく、射撃しやすい。中型のポケット・ピストルとしてスナッグ・プルーフに徹した結果、FNモデル1910のサイト・システムは、スライド上面の溝の中に収められ、異様に小さい。
 そのため、サイトを使用しての射撃は、サイトが小さすぎて正確さに欠ける。他方、スライド上面のサイトを収めた溝そのものを利用した素早いアイミングが可能だ。
 西ドイツ警察は、FNモデル1910ピストルとモデル1922ピストルを輸入し、1960年代中期まで使用していた。

3-1 Page1: 東西分裂、Manurhin Walther PP, PPK、FN M1910, M1922
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